関西本線加太駅の駅名板であります。撮影日時は昭和47年4月1日。この日はひとつ亀山方の関駅で下車し、撮影しながら線路伝いに加太駅まで歩きました。4月というのに結構寒くてときどき牡丹雪に降られたのを思い出します。春休みに三重県津市にあった親戚に厄介になり、従兄弟と一緒に4日間、蒸機撮影三昧をしたのであります。3月29、31、4月1日はここ加太で撮影し、3月30日のみ参宮線方面に行ったと思います。参宮線は蒸機牽引列車の本数が少なかったのでやはり大方は加太中心の撮影行となったようです。
加太駅で記念撮影。昭和47年4月1日撮影加太駅は現在、関西本線の非電化区間では唯一の完全無人駅になっているそうですが、駅名板は、このときより大きな立派なものに替えられているようですな。Wikipediaの加太駅の項に、現在の駅舎の写真が掲載されてますが、駅本屋の建物自体は昔のままのようです。さて右の写真は加太駅での記念撮影。写っている育ちの良さそうな坊ンについてのコメントは差し控えますけど、背後の駅舎に注目しましょう。
Wikipedia掲載の現況写真と見比べてみると、まず窓がサッシに変わってますね。それから玄関戸袋の部分も埋められてしまったように見えますが昭和47年当時は板の雨戸が嵌まっていたようです。また現況にみられる赤い郵便ポストは、ちょっと育ちの良さそうな坊ンの陰になってしまってますけど、当時もあったようです。ただ脚で立っているのではなく、駅舎の壁に直付けされていたみたいですね。ポストのうえにある板票には「警察官立寄所」と墨書されてます。
関連写真は本編:Train25 関西本線(加太)D51形にあります。
加太駅で記念撮影。昭和47年4月1日撮影
Wikipedia掲載の現況写真と見比べてみると、まず窓がサッシに変わってますね。それから玄関戸袋の部分も埋められてしまったように見えますが昭和47年当時は板の雨戸が嵌まっていたようです。また現況にみられる赤い郵便ポストは、ちょっと育ちの良さそうな坊ンの陰になってしまってますけど、当時もあったようです。ただ脚で立っているのではなく、駅舎の壁に直付けされていたみたいですね。ポストのうえにある板票には「警察官立寄所」と墨書されてます。
柘植方面より加太駅構内を見る。発車する貨物列車はD51718[亀]牽引。昭和47年(1972)4月1日撮影
加太駅構内の様子も載せておきましょう。柘植方から駅本屋方面を見たところです。Wikipediaにある構内写真とは反対向きになりますが、無蓋跨線橋が見えません。無人化される時につけられたのかな。昭和37年に貨物扱いが廃止になってますが、まだ貨物駅だったころの雰囲気が残ってます。写真右手の空き地には農業倉庫が建っていたのかもしれません。右に見える2本の看板は両方とも「構内通行厳禁!ご乗車の方は改札口にお廻り下さい 駅長」とあります。まあウンカのように押し寄せた鉄道マニアへの警告ですね。亀山方面方ホームにはソテツ様の樹木が植えられているなど典型的なローカル小駅の風情を醸してました。関連写真は本編:Train25 関西本線(加太)D51形にあります。
加太駅、むちゃくちゃ懐かしいです。確か駅の向こうにお寺かなんかあって、当然、駅長さん以下駅員も何人かおられて、結構こぎれいにされてました。店主殿の写真でも植え込みやらキチンと手入れされとてもきれいです。昔の国鉄有人ローカル駅は、駅という職場をとてもきれいにされ、どこもそうでしたが。駅員さんが自分達でガリ版で刷った、加太の蒸気列車通過時刻表をくれて、今のJRの鉄道マニアに対する嫌悪状態からは想像もつかないくらいの時代でした。今の無人の寂びれ果てた加太の駅と加太の大築堤を、1両のカスみたいな軽快ディーゼル車両で通過すると、何とも言えず物悲しい気分になります。その昔は官鉄の東海道線と、まだ民鉄だった関西鉄道が熾烈な競争をした鈴鹿の峠。そして、戦前から戦後まで、伝統だった姫路発のお伊勢参りの参宮列車の通り道だった加太。東京~湊町の急行「大和」もC57に引かれドラフトを山峡に響かせて8~10連の客車を引っ張って通りました。全て夢の中の出来事のようです。つわものどもの夢の跡、加太越え。
あんさんのコレクションフォトもコメント添えて、メール添付で送っていただけば、当欄でご紹介させていただきますよ。N編集長みたいに流暢にはいきまへんけどね。