2010年1月アーカイブ

iPad!

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今朝はおおむね気分よく目覚められたんで、家のことを適当に済ませてから、Macに向かってお決まりのサイトのチェックをしてから仕事にかかるべ、と思ってたんだけど、あ、そうそう27日にサンフランシスコで開催された、Appleの特別発表会はどうだったんだべ?と思い出した。

なんでもアップルが満を持して出す、iSlate(仮)という名前の新タブレット型コンピュータが発表されると噂されてたから気になってたんですわ。で、米Appleのサイトを見たのが運のつき。あなた、発表会のビデオ、1時間33分も見てしまいましたわ。

phw_ipad.jpgで、iPad登場。ま、蓋を開けてみれば、おおよそは巷の噂通りのマルチタッチ操作のタブレット型コンピュータだったワケですが、ああいうものが、たった499ドルぽっちで製品化されてまうという時代になったんだなあと、つくづくため息がでましたわ。まあブツはAppleのサイトで見てください。

Apple Special Event January 2010

スティーブ・ジョブズCEOは爺さんになったけど、あいかわらずカッコいいね。Appleの突然ガバチョ!の新製品発表と傲慢ともいえる販売方法には、今までたいがい振り回されて来たけど、ま、カッコいいから許しましょう。米国は3月、日本での発売は6月になりそうで、16GB+WiFiモデルに3Gを付けて629ドル。5万円台のケツか。安〜。iPadが売れるのは間違いないだろうけれど、問題はその先。

AppleがこのiPadでPCの牙城をどれくらい切り崩してシェアを奪い取れるかということでしょう。ずっとMac一筋でやって来たあたしにとっては、MacOSのシェアをせめて3割くらいにまで伸ばして欲しい。そうなるとインフラ面ですごく使いやすくなるだろうから助かるんですけど。しかしこのiPad、CPUが Apple A4つう自社モノになってるあたり、かなりの鼻息の荒さを感じますな。

でもまた、商売上手のまねっこビル・ゲイツさんとこが即、類似製品PCデバイスを激安価格で出してくるのは間違いないから、シェアが逆転するなんてことはまずないでしょうな。ま、なんでも一番になっちゃうとカッコいい商売はできなくなりますからね。「銭なんてものは汚のう稼いでキレイに使たらええんや!」というのにも一理はありますが、気取って儲けるのはさぞかし気持ち良いことでしょうから、Appleはんは今のスタンスで行きなはれ。もう許す。

iPad。なんとか買えるような経済状態に早くせねばのう。

金魚長屋(3)

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「こ、これはッ!...」 弥三はあまりの驚きに絶句してしまった。

 それもそのはず、葵巴(鞆絵)は、天下の古狸、徳川家康によって幕府の権威の象徴とすべく、強烈なCI(コーポーレート・アイデンティティ)戦略を施された御紋章である。もともとは松平家が葵を御神紋とする賀茂神社を崇拝していた縁からのようだが、その葵紋の一般使用を制限し、紋を勝手に使用したり不敬な扱いをすることを禁じた。関ヶ原合戦の後もまだ方々で燻り続けている豊臣方の大名や農民庶民に対し、朝廷や天皇の紋章である菊や桐を超越する、唯一無二の権威を意識づける畏れ多きツールとして奉りあげたのだ。実際、八代将軍吉宗の時代には明文化された法令も出され、葵紋を無断使用した浪人が死罪になったという記録も残っている。ま、詳しいことは知らんけどね。

 武家社会でのルールとはいえ、その畏れ多き葵の御紋に毎日小便を引っ掛けたあげく、真ん中から割ってしまったというのだから、いかに町人といえども明るみに出れば、見せしめにキツイお仕置きの沙汰が下されるのは必定だろう。二人のやもめ職人は、濡れ手に粟と喜んだのもつかの間、一転、御紋不敬の咎人とあいなってしまったようだ。

「弥三兄ィ、こりゃ公方さまの御紋...」
「明かりを消しねィ!ああ、どえらいものが出やがったぜ。留...、ま、短い間の付き合いだったが、あの世に行っても俺のことを忘れないでくんな」
「え、ええっ!ど、どういうことだよォ」
「見てみねえ、お前ェが馬鹿みたいにぴょんぴょん跳ねたもんだからよ、公方様の葵が真っ二つに割れちまったぜ。この狼藉がお上に知れりゃ獄門、いんや鋸挽の刑は免れめえ。小塚ッ原でよ」
「何言ってやがんでい!兄ィだって毎日毎日小便を引っ掛けてたんじゃないか。公方様に小便かけといて只で済むもんかい!」

「しっ...。大きい声を出すなよ。まあ落ち着け。鋸挽はこれが岡っ引きに嗅ぎつけられたらの話でい。今は幸い俺とお前ェの二人だけだ。このまま隠しちまえば分からねえ、バレなきゃどってことありゃしねえんだよ。それより先にお宝だ。それも葵の御紋付き...この際はさっさと中味を頂戴してから次の算段をしたほうが利口だぜ」



 狼狽えていた留吉だが、そこは現金なもの。「お宝」を思い出したとたん我にかえった。二人は周りに気を配りながら、手早く上にある残土を取り除いて石の蓋の全てを露出させた。中央に大きく葵巴の紋章を刻んだ黒御影の矩形が闇にぼんやり浮かび上がる。無残にも紋を縦断するように一本の亀裂が走っている。

「ううむ。でかしたぞ、留」
「何だい、薮から棒に」
「この石蓋、見たところ厚みも相当ありそうだ。二つに割れてなきゃ俺達二人の力では到底持ち上げられないとこだぜ。人を呼ぶわけにはいかねえしよ」
「でも、おかげでオイラは鋸挽...あ、そうだ!弥三兄ィ、首尾よく中味を頂いたあと、この蓋を兄ィがわからないように掛け接ぎすりゃいいんだよ。兄ィの腕は評判だしよ、お茶の子さいさいだろ、あとは知らんぷりしてりゃオイラの首も安泰」

「お前ェはほんとに馬鹿だな。俺は鋳掛屋だ。鍋釜なら持って来やがれってとこだが、鋳掛でどうやって石を接ぐんだ、つうの!」
「なんでェ。石も接げない鋳掛のくせに大きな顔してんじゃねえや!ああ首が涼しいなあ。仕方ねえ、早いとこ物騒なこの公方様をどこかへ隠してしまおうぜ」
「しかしこの重さじゃそう遠くへは運べねえな。留、お前ッちの縁の下が手近だ。とりあえずそこに放り込んどくことにしよう」

 割れた石蓋に両側から手を差し入れた二人は、腰を落として踏ん張り、何とか持ち上げて留吉の長屋の縁の下へ運び込む。さらにもう一片を運び終え、畳で覆って一息つくと、期待に鼻の下を伸ばしながら、手燭を手に再び穴のところへ戻った。
「さて、と。お宝はあるかな。留、穴ン中を照らして見ねえ」
「よし来た。エヘヘ、千両~箱ヤ~イ、っと」
 並んで穴の奥を覗き込もうとした刹那、二人の背後から声がかけられた。

「その方ら、そこで何を致しておる」
 驚いて振り返った二人の目に、長身の侍の輪郭が映った。

つづけ!
ぼやテツ7回目は、あたしの古鉄アーカイヴからちょっと脱線しまして、鉄関係の妄想を膨らませてみたいと思います。ずいぶん昔の話になりますけど、ど〜いうわけかあたしの鉄の琴線に触れて強烈な印象を埋め込まれた一枚の写真があったんですな。最初に見たときはまだ坊(ぼん)でしたから、誰が撮ったどこの写真なんてことは全く気にせず、ただ、戦前のヨーロッパ風の都市の家並みと、背景にかかる高いアーチ橋を走る蒸気機関車のイメージだけが、アタマに焼き込まれてしまったのであります。

長い間、再びその写真を目にすることもなかったんですが、常にその風景のイメージだけは頭の引き出しにしまい込まれていて、後に似たような構図の絵を描きかけたこともあります。そんでもって坊が野郎に成長して美大へ進んだ頃でしょうかね、この写真がハンガリー出身の著名な写真家、アンドレ・ケルテス(ケルテース・アンドル/André Kertész)の代表作のひとつ、「ムードンにて(Meudon, 1928)」(下写真)であることを知ったわけなのです。(版権があるのかもしれませんが、この写真がないと話ができないのでひとまず掲載します。問題アリの場合は指摘いただけば削除します)

btl_07_1.jpg
アンドレ・ケルテス Meudon, 1928




まあ写真の出自を知ったからといって特にどうともしなかったのですが、そのイメージは以前同様、頭のどこかにこだわり続けていたのでありました。ところが最近のこと、別件の検索をしているときに偶然ちらりとこの写真を見かけたので、検索作業も忘れて久しぶりにじっと写真を見つめていましたら、なんだか色々知りたくなって来たんですな。......まあケルテスの写真はおおむね好きで、いわゆるヤラセだとかの批判もありますけど、置きたい場所に置きたいものを配置して撮るのはひとつの構成手法なんだから別にいいんでないかと思います。中にはみるからに演出ヤリスギの、まるでジオラマみたいな絵になってる写真もありますけどね。このMeudonでも手前のオッサンなんか、いかにもヤラセつう感じで居てますですが......もとえ。さて、これはドコの街なのか?ドコの線路なのか?でもって橋は今もあるのか?という好奇心がね。


Andre Kertesz (Spezial Fotografie, Portfolio No. 31)

撮影年は1928年、昭和3年ですな。ムードンという名前からなんとなくフランスだろうなーとは思ってたのですが、絵柄の雰囲気はイギリスっぽい感じがしたので、ちょいとググッて見ましたところ、あなた、最近は便利ですね〜。Google Mapで一発ですわ。フランスのイル=ド=フランス地域圏、オー=ド=セーヌ県にあるパリの近郊都市で、鉄道ともいろいろ縁のあるお土地柄だそうです。で、地図の中から鉄道路線を探して、航空写真に切り替えて線路沿いをスクロールして行き、該当しそうな橋梁を探しました。でもあるのは近代的な複線や複々線の路盤ばっかりです。ちょいと諦めかけましたが、この橋の特長はアーチですんで、空撮の平面画像では橋脚の様子がわかりません。しからば、という訳でストリートビューに切り替え、ムードンの街を散歩してみましたら、ちゃんとあるじゃないですか、あのアーチ橋が。いやはやGoogle Map恐るべし。というか家にいながらこんなことできちゃうの愉しいな〜、と。


次はケルテスの撮影位置を特定しようと思い、ストリートビューが通っている橋周辺の道路をグルグル徘徊して、おおよそこのあたりが撮影地点だろうと目星をつけました。上の航空写真マップの右下へカーブしている道(ドクター・ヴィエーム通り)に面して、北に長く影をひいた茶色の屋根の建物がありますが、これが写真の左側の建物じゃないのかなあと。残念ながらこの道、ストリートビューが通ってませんので確認できませんけどね。

それから、この橋梁(ムードン高架橋またはヘレナ橋)の中央部の4つの橋脚は二重アーチになってますから、写真の橋脚は単層の東端部なんじゃないかと勘ぐるわけです。写真にはアーチを潜っている線路の築堤(建設中か?)も見えてますしね。北側に回っても地形から見てやや違うような感じだし。またこの鉄道橋、ケルテスの写真撮影当時は複線橋だったみたいですが、現在の航空写真を見ると電化複々線です。なもんで近づいて見上げたり、ズームで橋脚を細かく調べてみると、ちゃんと拡幅工事をされた追加の張り出し部も確認できるし、トンネル内も古い複線部分のみに赤レンガの内装が残っています。

この橋の由来や歴史、1928年当時の状況、写真の蒸気機関車の形式調査など、鉄チャンならまだまだ探求することは多くあるんでしょうけど、いまのあたしにゃこのあたりで時間切れ。でも2〜3時間没頭してしまいましたわ。興味とお時間のある方は、上のGoogle Mapの「大きな地図で見る」をクリックし、ストリートビューの人形をロータリー交差点の辺りに降ろして、アーチ橋をいにしえのケルテスの写真と比較しながら、のんびりムードンの街を散歩してみてくださいな。

本編:蒸気機関車と鉄道趣味
btw_06_2.jpgぼやテツ6回目は、ついでと言っちゃあ何なんですが、お年賀に掲載しました国鉄参宮線 宮川橋梁のC57牽引旅客列車の周辺写真とそのつぶやきでいっときます。撮影日は昭和47年(1972)4月3日です。冒頭に再掲したのは、参宮線の宮川〜山田上口間の宮川に架かる、明治30年(1897)竣工の古式ゆかしいトラス橋であります。

宮川橋梁の橋長は458m。旧参宮鉄道の架橋で橋桁は元々プラットトラス式だったものを昭和5年に鉄道省がダブルワーレン式に補強して、現在のX字型のトラス構造になったようです。レンガの橋脚といい鉄道橋らしい風情があっていい感じですね。上路のトラスなんで鉄道写真の撮影に非常に好ましい橋梁ですな。以前はお伊勢詣りの要路で賑わい、やんごとなき方々もたびたびお召しで通られましたから、早くから立派な鉄橋が架けられたんでしょうね。もはや現役の鉄道遺産といっていい橋です。


宮川橋梁を客車6両を牽いて渡っているのはC57形蒸気機関車ですな。現在この参宮線にはJR東海の2両編成キハ11がトコトコ走ってるようですが、当時は現車6両。まだまだ旅客も多かったと見えます。お年賀写真のコメントにはC57の車番不明と書きましたが、このコラムを書くにあたってちょっと資料を調べてみましたら、おおむねC57110[亀]だろうということが分かりました。列車は客821レ。亀山を7:21に出て伊勢市着9:01のスジです。折返し13:08発の826レとなって15:00に亀山に戻ります。ダイヤからすると、この写真の撮影時間は午前8時50分過ぎといったところでしょう。津以南のC57客レの運用は一日にこの一往復だけだったみたいです。

btw_06_3.jpg
↑参宮線 宮川橋梁のC57110[亀]客821レ(1972.4.3撮影/KonicaIII ヘキサノン48mm f2 NeopanSS)

切手付封筒を同封して天王寺鐵道管理局から送ってもらった、47.3.15改正のガリ版刷りのダイヤと配車表が残ってますんで、それを確認したところ、天鐵局に配置されているC57は全4両で、うち亀山機関区にはC57110、C57148、C57198の3両、あと紀伊田辺機関区に1両C577がありました。紀伊田辺のカマは紀和(信)方面への運用だし、当時すでにD51のみになってましたからC577は除外できます。余談ですが、亀山にはこの時点で入換用のC50がまだ2両も残ってたんですねえ。C50109とC50154。何で撮らんかったんやろ?


↑天賞堂HO C57一次形

さて亀山配置のC57110、C57148、C57198の3両のどれかということに絞られたわけですが、ありがたいことに、この3両のC57は全部次形が違うので特長の違いがわかりやすいんです。3両ともみんな重油タンクを背負ってますが、C57110は一次形、C57148はテンダー台車が変わった二次形、そしてC57198は窯の太い四次形です。しかしこうズラッと形違いが並ぶとは、蒸機最末期の亀山機関区はC57博物館みたいな配車だったんですねえ。

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↑上写真の一部を拡大しました。キャブが開放型ですね〜

写真に戻ります。撮影したカメラがコニカ3なので望遠もなく、引きで撮ってるので機関車の細部が判断しにくいのですが、列車が鉄橋を渡っていくぶん近づいて来た次のカットを拡大してシルエットを見てみました。C57一次形と二次形では見分けがつきにくいんですけど、幸いなことにC57148は集煙装置付きだったんでハッキリと違います。そして拡大してみるとキャブの形状が開放型、先輪もスポークっぽいんで密閉キャブの四次形C57198も外せます。つう消去法でいくと、このC57は昭和31年の六軒事故で衝突・脱線転覆ののち復活したいわく付きのカマのC57110でした...となるわけであります。

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↑国鉄参宮線 山田上口駅 駅舎と駅前広場。昭和47年(1972)4月3日撮影

車番がわかったところでC57から離れまして、この写真は山田上口駅の駅舎です。どーってことない写真ですが、丸い鋳物の郵便ポスト、クラシカルな公衆電話ボックスが懐かしい風情です。駅を出るオバサンの服装も昭和ですね〜。Wikipediaに載ってる2006年6月撮影の山田上口駅舎外観写真と比べてみると面白いです。この写真から34年が経過してますが、ポストと電話は同じ位置に更新されてますね。ソテツはずいぶん成長しました。屋根上のストーブ用煙突は撤去されてます。しかし駅舎は当時の状態を良くとどめているほうだと言っていいでしょうね。駅向こうの大きな煙突がありませんが工場だったのかな。玄関部分を拡大した一枚を下に載せておきましょう。ちなみに現在の山田上口駅は無人駅だそうであります。

btw_06_1u.jpgネガにはこのあと隣の宮川駅で撮影したD51貨物列車の入換風景がありますけど、折返しのC57牽引上り826レの写真がありません。たぶん蒸機牽引の旧客に乗って帰る楽しみの方を選んだんでしょう。親戚のあった阿漕駅まで一時間半(上りは多気で30分程停車した)ほどを汽車旅に揺られつつ喜んで帰ったのではないですかね。この前日に撮影したC57110牽引客826レの写真は本編に既出です。今回のぼやテツはこんなところにしときます。宮川駅構内のD51の写真はまたの機会に。

賀正 2010

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あけましておめでとうございます。

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参宮線 宮川橋梁のC57旅客列車 昭和47年4月3日撮影

昨年は拙サイトをご覧いただきありがとうございました。
本年もどうぞよろしくお願い申しあげます。

cave拝

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