蒸気機関車と鉄道趣味
33後編
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国鉄 山陰本線のD51形 前編・後編(1973.7.28〜7.31)

「山陰本線D51撮影旅行1973年・夏/後編
(岡見-鎌手、長門機関区、田儀-波根)

(minolta SRT101・ロッコール58/135mm f1.4〜3.5・Kodacolor- X)

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これぞ山陰というべき景色だ。荒々しさを感じさせる日本海。浜に引き揚げられた漁船。
鄙びた赤瓦の集落の中を海岸段丘に沿って走るC57牽引の旅客列車。本撮影行唯一のC57写真である。
(形式 C57[浜] 客544レ 田儀〜波根 73.7.31)

昭和48(1973)年の7月27日から8月1日にかけて、友人と山陰本線西部(米子〜下関)の蒸気機関車を撮影に出かけた。中学三年生の夏休みである。当時、米子以西の山陰本線に蒸機が配置されていた機関区は米子、浜田、長門で、機種はD51、C57、C56、C11だったが、この撮影行では旅程や運用時間の都合でほぼD51だけの撮影となっている。残っている旅程メモと運行ダイヤグラム、またフィルムのネガナンバーなどをベースに、ほとんど残っていない記憶と突きあわせながら、おおむねの動きを推測し、撮影した写真をほぼ旅程順に、全編・後編に分けて掲載。(本ページは後編)


※撮影から30数年経過したカラーネガフィルムには、退色や劣化が激しい部分があり、若干の補正は試みたものの、残念ながら往時の色を再現できたとは言えません。また資料不十分のため、旅程やキャプションのデータ等には誤記の可能性があります。ご了承ください。


前日と同じ浜田〜益田間での撮影だが、益田寄りの岡見〜鎌手間の海岸風景はやや荒々しさを増す。
12:20頃、益田駅を正午前に出発した貨物列車が青浦の鉄橋を渡って岡見駅に近づく。
(形式 D51[長] 貨876レ 岡見〜鎌手 73.7.30)

[旅行経路メモ]昭和48年7月

7月30日:浜田5:29→岡見6:01 長門市行855D
    ・三保三隅〜岡見〜鎌手間で撮影
     岡見18:26→長門市21:59 長門市行833レ(D51牽引)
    ・途中益田駅で交換風景撮影
    ・長門機関区撮影
7月31日:長門市1:10→ 急行「さんべ3号」米子行802レ(車中泊)
     出雲市5:40着

さて翌7月30日。旅程メモには早朝5時に民宿を出て浜田駅から岡見に向かったとあるが、これはたぶんウソだ。宿のフトンの心地よさに寝過ごしてボツになったと思われる。当日のネガに、最初に写っている列車は、昼も昼、岡見着12:20頃の貨876レである。まあこの辺りに筋金入りの鉄ヲタではなかったわたしの“根性のなさ”が如実に現われているのだが…。前日の折居周辺の撮影地から益田方に場所を変え、有名な撮影地、青浦のデッキプレートガーダー橋で一日を過ごすこととなった。線路が岩礁の上を走り、荒々しさを増した風景なのだが、曇り空で夏の日本海の青さが出なかったのが残念だ。

国土地理院1/25000地形図「三隅/南西」(現況)



【昭和48年7月30日・浜田〜益田間 岡見〜鎌手】
岡見駅で上写真の876レと交換してきた下り861レ。
あいにく天気がいまいち。橋梁の背後に見える岩礁は観音崎に続く鼻だ。
(形式 D51[長] 貨861レ 岡見〜鎌手 73.7.30)


線路上の高台から崖を巻いて波打ち際へ降り、岩礁から青浦橋梁を望む。
861レ通過から約3時間半経った16:00頃に下り1891レが通過。この区間、日中午後の蒸機牽引列車数は少なかった。
(形式 D51[長] 貨1891レ 岡見〜鎌手 73.7.30)

夕方17:00を過ぎた頃、上り860レが通過。
午後に順光となる夏の陽射しを期待して待ったがついに晴れず。
曇り空の割りに相当暑い一日だったことだけはよく憶えている。
(形式 D51 貨860レ 岡見〜鎌手 73.7.30)



青浦の鉄橋を引いたアングルで見る(上写真)。この周辺には店舗や自販機などが全くなかったのだが、強烈な猛暑に水を切らしてしまい、やむなく写真の鉄橋の上に見える農家で飲料水を分けていただいた。井戸水か沢水かは不明だが、キン!と冷えていてすこぶる美味しかったことが印象に残っている。

RMのサイト『鉄道ホビダス』の「お立ち台通信」に同地の写真(1999年8月撮影)が掲載されている。およそ26年後の現地だが、比較して見ると農家の周囲にあった数本の背の高い松が立ち枯れてしまっているように見える。やはり中国の無闇な工業化による大気汚染の影響なのだろうか? ま、ココも「中国」なんではあるが…ふいに「中国は広島生まれ北京です」の口上を思いだす。(ゼンジー北京師匠)

午後一杯を過ごした青浦の鉄橋に別れを告げ、岡見駅から長門市駅に向かったようだが、実は以降数枚の写真の撮影データがはっきりしない。写真の明るさと当時のスジから、D51牽引の833レに乗り益田駅での交換中に撮影したと推測して以下のキャプションを記すが、ひょっとしたら全て長門市駅での撮影である可能性あり。あらかじめご了承を。





【昭和48年7月30日・益田駅構内/益田〜長門市】
岡見から長門市までの移動は、D51が牽引する下り833レ長門市行に乗車。
この普通列車は途中、益田駅で約30分間停車し、D51牽引の上り貨2762レと交換した。
列車の停車時間中にホームから牽引機D511067[浜]のキャブを撮影。機関士も一服中?
(D511067[浜] 客833レ 益田駅構内 73.7.30)


暮れゆくホームの端にて。給水ポンプで作業する職員。
(益田駅構内 73.7.30)


客833レを牽くD511067[浜]が出発時刻を待つ。このカマは後藤式集煙装置付だ。
益田駅18:54着、発時刻は19:30。乗り込んでいる客車はもちろん一両目。
(D511067[浜] 客833レ 益田駅構内 73.7.30)

発時刻がせまったので車両に乗り込み車窓から撮影。ホームでは職員が談笑中。
向かいのホームに入線してきた貨物列車は下関〜出雲市行の2762レだ。
(客833レ車窓より 益田駅構内 73.7.30)

長門市に向かってふたたび走り出した833列車の客車内。背もたれにクッション無し。
デッキ向こうの貫通扉から、D511067のテンダーが見えるはずだが…夜でムリか。
(D511067[浜] 客833レ車中 益田〜長門市間 73.7.30)




【昭和48年7月30日・長門市駅/長門機関区】
先ほどまで牽かれていた、D511067も機関区内に入線。しばしの休憩・点検を受ける。
カマボコドームの戦時設計機である。手前のテンダーはD51628[長]。
(D511067[浜] 長門機関区構内 73.7.30)

蒸機列車は21:59に長門市駅に到着した。次の乗車は1:10発の急行「さんべ3号」米子行802レで出雲市に向かう予定。出雲市着が5:40だから、こいつの車中で4時間半の睡眠をむさぼろうという魂胆だ。この夜はなぜか400円を投入して、この列車に1両しか連結されていない普通車指定席を取っている。3号車,01番C,D席。2両連結のオネ,ハネはともかくも自由席が4両もあるのに? 初日に始発から同列車に乗ったが、その時の混み具合を見て座れないと判断したのか。

乗車する急行「さんべ3号」が到着するまで約4時間もの時間があり、夕食などを食べても十分に余ってしまう。そこで長門市駅ホーム端から深夜の長門機関区をバブル撮影した。

長門機関区の構内図を探していたら、1976年の空中写真を発見。無煙化完了後ではあるが、当時の構内の様子が良く分かるので引用させていただきます。


国土情報ウェブマッピング 萩 C12-22(昭和51年)1/10000空中写真
(長門機関区上空)



長門市駅ホーム端から望遠バルブ撮影。
SRT101はTTL機なので露出計を持参しなかった。全くのヤマカンで秒数を決める。
(D51628[長] 長門機関区 73.7.30)

車両が出払ってガランとした夜の長門市駅ヤード。
(長門市駅構内 73.7.30)


現役のD51がこれでもかと犇めいていた、夜の長門機関区構内。
写真右手奥に扇形機関庫とターンテーブルがあった。
(D51628[長] D51214[長] 長門機関区 73.7.30)



【昭和48年7月31日・出雲市〜太田市間 田儀〜波根】
田儀駅から国道を波根側にしばらく歩くと田儀川と国道を越えるガーダー橋がある。
ここで米子方面へ向かう貨866レを撮影した。
牽引機は前編に登場した赤ナンバー白ラインのD51だが、
残念ながらこの写真でも機番は確認できず。
伯備線方面の新見・米子区あたりから転籍してきたカマかもしれない。
(形式D51 貨866レ 田儀〜波根 73.7.31)

[旅行経路メモ]昭和48年7月

7月31日:出雲市5:40着 急行「さんべ3号」米子行802レ(車中泊)
     出雲市5:42→田儀6:09 浜田行521レ
    ・田儀〜波根間で撮影
     田儀18:18→出雲市18:43 出雲市行534レ
    ・出雲市駅で貨863レ(D51牽引)撮影
     旅程詳細不明
    (この間、大社線にて出雲大社へ参詣・観光をした模様)
     米子22:35→ 急行「だいせん2号」大阪行706レ(車中泊)
8月01日:大阪6:39着
     大阪6:55→京都7:30 米原行726M



山陰本線の撮影行もいよいよ最終日である。31日は出雲市〜太田市間の海沿いを走る列車を狙うことにした。前夜、急行「さんべ3号」の指定席を奢ったが、果たして十分寝られたのか。ともあれ6時09分、予定通り田儀駅に到着。ファンに良く知られていた撮影地は小田駅側の線路だが、あまのじゃく精神を発揚して波根側へと歩いた。

しかしこれがわたし的には当たり!だった。日本海を右サイドに、赤瓦の集落のある海岸段丘上を行く列車を遠望できるポイント(本ページ冒頭の写真)や、はるか島根半島の日御岬まで望める高台のポイントなどに遭遇。撮った写真自体の出来はイマイチだったが、なんだか有終の美を飾ったような気にはなれたのだった。


国土地理院1/25000地形図「田儀/南東」(現況)
国土情報ウブマッピング 石見大田C5-3(昭和51年)1/10000空中写真
(田儀〜波根間撮影地上空)


日本海に落ち込む岩礁の連なりが豪快に遠近感を醸し出す。
小さな浜に降りる道。段丘上の線路をゆく上り貨物列車。
(形式D51 貨560レ 田儀〜波根 73.7.31)

上写真からの連続撮影。ゆるいカーブを描いた線路は、赤瓦の島津屋集落脇から島津屋トンネルに入る。
日本海は入らないけれど、どことなく模型的風情を感じるアングルだ。
(形式D51 貨560レ 田儀〜波根 73.7.31)

島津屋集落からさらに西へゆくと、
はるか島根半島まで遠望できる高台があった。
雄大な景色の中を単機で走るD51。
(形式D51 貨561レ 田儀〜波根 73.7.31)


トンネルの連続する区間をぐるりと巻いて歩き、山側から線路付近に降りてくると、素晴らしい景色が広がった。
美しい青の海岸線とその段丘に貼り付くような棚田の緑。中央を直線で貫く線路。
クルマの走る道路が無いことが風景を引き締めているのだと思う。足の便が悪い撮影ポイントは、また得られるものも大きい。
(形式D51 客834レ 田儀〜波根 73.7.31)


田儀〜波根間の撮影を終えて出雲市駅に戻った。駅に停車中のD51を撮って、今回の蒸機撮影はオシマイ。
資料によると、D51869[長]は後藤式集煙装置装備機、缶安全弁に宮内省御下賜品とある。
(D51869[長] 貨863レ 出雲市駅構内 73.7.31)

旅程メモには、このあと米子に出て米子機関区を撮影という予定が記入されている。しかし、ネガを見ると、出雲大社での友人とのスナップ写真が写っていて、それで今回の旅の写真はジ・エンドになっている。そう言えば、おぼろながら「大社そば」を食べた記憶もある。7月27日の早朝に京都を発って以来、強行軍の5日間を過ごし、さすがに「鉄」疲れしたのだろう。さらりとDISCOVER→JAPAN路線に切り替えたようである。大社から米子にでた時間や列車は不明だが、米子からは予定通り、福知山線経由の夜行急行「だいせん2号」の普通車指定席で無事帰ったようである。たぶん大阪到着まで、全編爆睡しきっていたに違いない。


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国鉄 山陰本線のD51形 前編・後編(1973.7.28〜7.31)
(minolta SRT101・ロッコール58/135mm f1.4〜3.5・Kodacolor- X)

2008.02.28記

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