私は、教訓めいたものを、史実などを例にひき、納得させ押し付けるようなタイプの書物はあまり好まない。
また、成功者(特に企業家など)に取材をし、著者の評論を加えてまとめられたビジネス教則本のたぐいも進んで読むことは少ない。
本書の体裁は、まさに上記のタイプに属するのだが、読んでみると違う印象を受けた。非常に面白く読め、納得でき、考えさせられる内容なのだ。もちろん「わたし的」に、ではあるのだが。
副題に「戦争から学ぶ勝利の秘訣24条」とあるように、主に先の大戦の事例から「改善/改良/改革の重要性」を今の時代にあてはめて、再考してみようというものだ。
特に、今の日本は、日本人は、あたかも民主主義国家、民主主義者のような顔で振る舞っているが、果たして帝国主義のもと敗戦まで持っていた意識を、完全に転換できているかというと、かなり危うい。
事例を読んでゆくと、戦争中、日本の国が軍が国民が、しでかし続けた過ちを「昔のことで、現在は違う」と笑い飛ばせないところが数多く浮かび上がる。
「ん?全然変わってないじゃないか!」と思われる部分のなんと多いことか。
最近の不可解な事件や不景気の世相なども、この国全体が、過去の教訓を重視せず、著者の述べる、改善・改良・改革を怠り、ラクなほうに流れていったことで噴きだして来たものだと思わずにいられなくなる。
特に企業経営は、まんま戦争だと言い換えても不自然ではない。練度の高い人材、余裕を持っての研究開発、完成度の高い商品、そして資本力。これらはすべて戦争に勝つための条件と重なる。
まあ、本書ではそのあたりのことを、実際の兵器や戦略に合わせて、考えさせてくれるというワケだ。教訓部分も押しつけがましくなく、読みやすい。
では、いつものように私が興味をひかれた部分をいくつか拾ってみることにする。 |
●第二次大戦を勝利に導いた兵器とは
連合軍総司令官だったアイゼンハワーは戦後インタビューで、その一番は「ジープ」であると述べたという。
この小型の四輪駆動車は、1940年に開発を開始、その3年半後には64万台が生産され、連絡、輸送、偵察はもとより、機関銃を装備して攻撃にも、戦傷者の搬送にも使った。専用トレーラーも用意され、小型で小回りが効き、頑丈で故障が少ない、戦場で非常に重宝される万能車だった。
で、日本の陸海軍はどうだったかといえば、昭和10年に制式化した四輪駆動の「くろがね四起 九五式指揮・偵察車」を持っていた。ジープと比較して、エンジンの出力は小さいものの、車体の大きさや製造コストなどに大差はなかったという。しかし運用法は全く違い、将校の連絡用にしか使用せず、終戦までの生産台数は4800台でジープのわずか130分の1であったという。 |
せっかく四輪駆動車を開発しているのだから、運用法を十分検討し装甲をほどこしかつ出力を揚げれば、前線への補給や連絡を大八車や兵の足に頼らずに済んだ訳だ。これは日本軍の補給軽視の傾向と一致するのだが、他の先進国の兵士が当時ほぼ100%自動車の運転ができたのに対し、日本の陸軍ではなんと5%以下だったという。著者は陸軍の敗因は兵にあるのではなく、こういう必要性に気づくことができない上層部の無能によるところと断定し、専門家の意見を絶対視しないこと(特に未来予測において)。また、一見地味な道具や組織が実は高い能力を発揮することが多く、当初の目的にとらわれることなく他の用途に転用できないかを常に検討すべきだ、という教訓に導いている。 |
くろがね四起 九五式指揮・偵察車
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●大和、武蔵、信濃の抗堪性
有名な弩級戦艦「大和」。大艦巨砲主義のあだ花ともいえる戦艦だが、満載排水量70000トンを超えたこの巨艦は、現在に至ってなお、米原子力空母を除くどの軍用艦よりも巨大である。この大きな兵器は、動かすこともおそろしく複雑で、運航に要する乗組員はなんと3300名に及んだという。
さて、大和には姉妹艦、武蔵と信濃(途中で空母に設計変更)があった。これら三隻は基本的な船体構造や防御力は全く同じであった。これら三隻の沈没の原因を較べてみると……
大和…航空魚雷11本、爆弾10発(艦載機の攻撃による)
武蔵…航空魚雷20本、爆弾17発(艦載機の攻撃による)
信濃…潜水艦魚雷4本(潜水艦の攻撃による)
となっている。
最初に沈むこととなった武蔵は、20本の魚雷と17発の爆弾を受けながらも、転覆や爆発を起こすことなく、粛々と沈んでいったという。それまでに沈没した他国の大戦艦は7〜8発の命中魚雷で轟沈していることを考えると、驚異的な抗堪性を備えていたといえる。
それに対して三番艦の信濃は、竣工から10日で、わずか4本の魚雷命中で転覆、沈没している。
全く同じ構造と防御力を持った艦なのに、なぜこれだけの差が出るのか。著者ははっきりとヒューマン・ファクターが原因と述べている。
武蔵の場合、沈没は昭和19年10月であったが、このころの乗員はベテランぞろいで、熟練度が高かった。 |
浸水を防ぎ、船体の傾斜を復元させ、火災を消火するといった人的ダメージコントロールが轟沈を回避したのだという。結局は沈没に至ったのだが、艦船のメカニズムと乗組員の技術が世界に誇れるレベルだということは証明した。
一方、信濃の乗員はその半分が、生まれて初めて船に乗った、という人びとであったという。魚雷を受け、パニックに陥ったので浸水を止められずに、たった4発の命中であっけない沈没に至った。
そして最後の大和では、先の武蔵の撃沈にてこずった米軍が攻撃方法を研究。片方舷側に魚雷を集中させることにより、武蔵のおよそ半数の命中数で沈めている。
これらの事例から、コンピュータやハイテク化がいかに進もうとも、使用、管理する人間の練度が結果を大きく左右することに変わりがない、という教訓が得られる。 |
弩級戦艦「大和」の最期
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●火縄銃と短機関銃
ここでは、既製の道具を改善する発想・姿勢と、常に簡易化・合理化の可能性を探ることの重要性について書かれている。
戦国時代に種子島に伝来した「火縄銃」は、いち早くその優位性に着目した織田信長などにより、すぐさま大量生産されたのだが、以来明治にいたるまで約300年間、大きな改良が施されなかったという。
火縄銃の欠点は発射の際の射撃姿勢の不安定さにあり、その原因は銃床の形状にあった。この銃床は木製なので、のみや鉋を用いれば誰でも簡単に、自分にフィットする形状に改造することができた。そうすれば火縄銃の命中率も二倍以上に上がったという。しかし、日本人でこの重要な兵器の改良に取り組んだ人物は一人としていなかったのだ。
その事実をふまえて、前大戦の歩兵の主力武装、短機関銃(サブ・マシンガン)に話題が移行する。
普通の小銃の20倍の発射能力を持つ、SMGを他国の陸軍はさかんに使用したが、この兵器の開発・配備の最も遅れていたのが日本陸軍であった。 |
100式短機関銃などがあるにはあったが、数は少なかった。軍がそのまま放置していたのには理由があって、一は、戦闘方法が確立されていなかったこと。二は、製造コストの高さ。三に、弾薬の消費量の急増、があった。それで、日本陸軍は必要性を知りつつ実用化を諦めてしまったらしい。そのうち、最も問題にされたのが三八式歩兵銃に較べて10倍以上かかる製造コストだというのだが、米のM3グリスガンや英のステンガンMK1などは、簡単なプレス加工や簡易折曲げ機で製造できる方法を開発し、小銃の45%のコストで実用化していた。ちなみにドイツのものはその国民性に依るところか、精密な構造のものを生産し、故障も多く、コストも小銃の3倍はついていたという。このことだけでも枢軸側と連合軍の大きな戦力差になっていたことが読み取れる。
日本は資源の不足から「足りぬ、足りぬは工夫が足りぬ」などと叫んでいたが、資源大国のアメリカでも、これらの小火器には町工場でも製造できるような工夫がされており、大量生産を可能にする簡易化の配慮があったのだ。 |
イギリスのSMG・ステンガンMK1
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そのほか、面白い表題を列記すると、「最も改善が著しかった軍事大国ソ連」「光学兵器対電波兵器」「歩兵の持つ対戦車兵器」「積極果敢派対泰然自若派(指揮官の性格)」「戦闘機の戦術から学ぶもの」などがあり、また「湾岸戦争におけるアメリカ軍」「TMD兵器は万里の長城か」など、現代戦から読み取れる教訓にも言及している。
日本は、敗戦から駆け足で経済発展を遂げたものの、バブルの壁にぶちあたり、いまだその影響から立ち直れずにいる。
「かっての陸海軍はなんてマヌケだったのか」、などと今を楽観視し謳歌しがちだが、実際冷静に省みてみれば、案外当時そのままに事を運んでいる部分が非常に多く感じられる。特に、小泉内閣の異常な人気ぶりを示す数字などをみるにつけ、そのマヌケな軍人達に洗脳され一塊になり、疑問も創意もくふうもないがしろにして最悪の事態に至った「国民性」などは、全く改善されている気がしない。
企業の経営にしても、景気上昇の希望がほとんど閉ざされた今となっても、改善の努力を怠っている部分がたくさんあるのではないだろうか。
マヌケな旧軍を手本に引くからこそ、現状の深刻さや閉塞感から、すこし離れた立場で読書でき、忘れかかっている大事な部分を再確認することができる。また、戦争そのものの無意味さも、実感できる機会にもなるだろう。
なんだかんだが続く日本。またまたエラク暑苦しくなりそうな、この夏にこそ、本書の一読をお勧めしたいと思い、感想をまとめてみた。
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