cave's books
文庫本読書倶楽部
10
ノクターン

ノクターン 10 ノクターン 87分署シリーズ

エド・マクベイン 著
早川書房・ポケミス
海外ミステリ

投稿人:コダーマン ― 00.07.21
コメント:
---


 (このサイトの主催者が、ここを「文庫」という名前にしているのでできるだけ文庫本を紹介しようと思っています。しかし、すでに新書判の本を取り上げてしまったように、投稿者の私は、文庫と新書に限るという規定を作って紹介することにします。この早川のポケミスは、価格はハードカバー並みの価格ですが本の大きさは確かに新書判。実際、私自身も購入する本の大半は文庫本に限っていますが、このシリーズのように何十年もつきあっている本に限っては新書判を買うこともあります。ということで、この版の本を取り上げます。非常にいい小説だったことも理由です)

 87分署シリーズの最新作。何冊ぶりかで、面白かった。
 87分署は「警察小説」とは言っても、登場人物皆で同じ事件を追い掛けるタイプの小説ではなく、分署の刑事達がそれぞれに担当している事件の解決のために動いている。しかも刑事同士は必ずしも仲良しではない。かなり嫌いあっている者同士もいるし、民族問題、人種問題、これまでの人間関係からの好き嫌い、これが常にわだかまっている。その上で、優秀な刑事ばかりではなく、全くどうしてこういう登場人物をつくり出すんだろう、とうんざりしてしまうような人間もいる。長くこのシリーズを読んでいると、87分署で仕事をしたくて転属願いを出してまで移って来た者がいたり、ここにいたくないのになかなか他に行けないのがいたり、もある。
 今度の中心事件は、関節炎がひどく動きが緩慢になってしまった老女が、アパートで撃ち殺されたという単純な事件である。酒を手放せない老女が近所の酒屋で酒を買って帰って来たら、部屋に空き巣がいて、犯人は顔を見られてしまったので殺したという風に見えた。しかしまぁ、そのままでは物語にならないわけで、捜査を始めると間もなく、この老女がかつては世界を唸らせた名ピアニストだったことがわかる。ものすごい存在だったが、ある時期から演奏活動を止めてひっそり暮らして来たということだった。
 刑事達が調べたところなんでもないように見えるアル中の老女にそういう過去があって、彼女が孫娘のためにかなりな財産を残してくれていたらしいことがわかりはじめる。
 その事件を捜査する今回の主役組とは別の組が、同じ夜に起きた娼婦殺人事件を追いかけることになる。この二つの事件は交差しない別々の事件である。しかし警察組織として、二つの事件のせいで錯綜してしまうことなる。
 かつて世界に名を為した女性ピアニストの孫は、二人の男を侍らしていい加減な暮らしをしている。金が欲しい。彼女は男達を操っているつもりでいるし、一方、男達は互いに嫌いあっている上に、彼女から金を捲き上げたらおさらばしようと心づもりしている。この人間模様がひとつ。
 また、昔の名演奏のレコードを何度も聞かされたアパートの隣人と老女の、心あたたまる日常もある。ここには悪意を全くもたないで老女を思い遣る他人がいる。老女の飼い猫の世話をしてくれる通いの青年もいる。これも温かい人間模様。
 娼婦が殺された事件は、上品な三人の坊や達がちょっと街に遊びに来て、女の子とやりたくなったりして調子に乗ったせいで起きてしまう事件。ヤクの売人がからみ、ポン引きがからみ、殺人を犯してからの坊や達の世間知らずな行動が読者を腹立たしくさせるようにできている。
 老女の事件は、刑事達と同じ視線で捜査の手順に従って読んでいくことになる。一方、娼婦殺人事件は、読者がその事件の現場を読むことになり、警察がそれをどう解決に結びつけていくのか気にしながら読み進むというスタイルの違いがある。この辺の、ミステリの作り方はマクベインの腕の確かさ、見事さである。
 偶然が重なって事件が解決するということはなく、全くうんざりする大都会にうごめく悪の面々に丹念にあたって汚い言葉を吐き散らしながら事件は解決に向かう。
 物がミステリだから安易「筋」に書くことはできないが、殺された老女について、ハッとする話を結末に用意している。その小さな、それでいて実に大切な、余韻を深める事情がこの小説を非常に素晴らしいものにしている。
 この警察小説は、もう50冊目に手が届こうとしている。ニューヨークに非常によく似た架空の街の今の風俗、そしてそれぞれに個人生活を持つ大人の刑事達の存在感、こうしたものが、質のいい現代小説を読んでいると感じさせるところが世界的に人気を保っている点だと思う。
 日本の警察ドラマ、刑事ドラマは主役が「はぐれ」者であることが前提のようになっていて、中盤に偶然が重なって事件が急転直下解決に向かうということが多い。それと、警察官達の多くが個性を持った人間として描かれることがない。アメリカの警察小説の質のいいものはその点が違うといつも思う。悪徳警官もいるし、正義のためにと真面目な人間もいる、またやがて政界に打って出ようとそのために警察組織の上に君臨してマスコミを意識するばかりのクソ野郎もいる。しかし、それぞれに個性を持った人間として描かれていることと、物語全体がよく構成されていることだけは一枚も二枚も上だと思う。しかも、この一冊は、マクベインのこのシリーズの中でも、出色のできと言っていい。小説の「読み巧者」である知人が電話して来て、「今度のマクベインはうっまいねぇ。70才過ぎてあれだけ書けるっては才能なんだろうね」と言っていた。私も全く同意見である。
 巨大な街の、喧噪、倦怠、仕事として警察に勤務している男達の哀愁、どれもみごとだった。


文庫本読書倶楽部 (c)Copyright "cave" All right reserved.(著作の権利は各投稿者に帰属します)