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135 老化で遊ぼう
東海林さだお 赤瀬川原平 著
新潮文庫
対談集
投稿人:cave ☆☆ 08.03.15
コメント:でもこのお二人はやっぱり単独エッセイの方が面白いなあ。 |
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う〜ん、本屋で偶然目に飛び込んで来た、この文庫本。このメンツ。個人的にどうしても読まない訳にいかない対談集だった。恥ずかしながら「小説新潮」の2003〜7年に連載されていた元稿「軽老モーロー対談」の存在は知らなかったし、他に単行本でも二冊出ているらしいけれど、この両センセイの組み合わせ、なるほどと言えばなるほどであり意外と言えば意外だ。確かにお二人とも、漫画家兼エッセイストと美術家兼作家ということで絵・文つながりがあるし、どちらも昭和12年生まれの同い年、また「貧乏性」と「優柔不断」が表現のベースにあって一見似かよっているようだが、しかして、その表現の焦点はかなり違う部分に当てられているように思う。
この二人を「似ているようで実は違う」と感じるか「違うけど実は似ている」と感じるかは人それぞれだろうが、こういう微妙な位置関係にある二つのキャラクターの対談というのは、当たるのか外れるのか、ひとつの実験的な趣もあり、好奇心から読まずにいられなくなってしまった。で、どちらの肩も持ちたくなる可能性のある人同士の対談というのは、読み手にとっては結構ストレスになるものだと知ったのである。
さて、対談の中身をさらりと覗いておくと、テーマは全10話で構成されていて、冒頭三話はゲスト付きの鼎談。初回は赤瀬川組ともいえる藤森照信さん。主に三人の少年時代の遊びのことについて語り合う。ニワトリの毛の抜き方や蜂の子の取り方、ボールのかわりに木の枝切れを投げて行う野球、「ボー球」のやり方など。話がそれるが、玉木正之さんが草野球のことを「太鼓ベース」「鉄管ベース」などと呼んでいたのは「Take one base」が語源かな?とコラムに書いているのをみたことがある。「棒球」は中国での野球の名称だけど、あちらも木の枝で草野球をやったのだろうか? 次のゲストは阿川佐和子さん。女性の老化感にツッコミ。三回目は数学者の藤原正彦さんがゲスト。日本人には数学向きの独創力があって、俳句という芸術は数学における想像性に近いというハナシになるほどと思う。しかしお二人ともそういう性格だから仕方ないけど、ゲストが来るとどうも引っ込んで聞き手に回ってしまう傾向があるなあ。
三話の鼎談のあとはお二人の対談が七話。収集癖、性、お金、貧乏、絵画、コンプレックス、老化とテーマが続く。歯切れの良い言葉がぽんぽん出てくるというよりは、地味なところからじわじわ湧き出てくるような滋味深い展開が多いが、おおむね東海林さんがツッコミ、原平さんがボケの役割で進んでいる。ショージ君の「ツッコミ」というのは普通ならなかなか想像できないが、相手がゲンペーさんゆえにやむなくの連発、というところか。どうもこの対談、赤瀬川さんのほうがラクしてトクしているように思えてしまう。
わたしは青年期、東海林さだおさんのエッセイ『ショージ君のにっぽん拝見』などに大きな影響を受けた。大衆的スタンス、意表をついた視点から繰り出される鋭い観察・考察のジャブの連打に、貧乏で臆病な学生のわたしは共感とともに表現というものの可能性を知って驚き、「ショージ君」シリーズ愛読者となったのであったが、その後のベストセラー連発、その印税等々を鑑みるに、もはや貧乏ではあり得ないはずの現実の著者と作品内容とのギャップに耐えられなくなり、徐々に離れることとなってしまって現在に到る。
赤瀬川原平さんはその逆で、若き「前衛芸術家」のころにはあまり興味を持たなかったが、美学校関連一味による『超芸術トマソン』をはじめとする新しい観賞法の提案に興味を惹かれたと思いきや、イッキに小説『肌ざわリ』、芥川賞作『父が消えた』の、ふわふわとした、まるで脳梗塞退院直後のような味わいの尾辻ワールドに嵌まってしまった。『老人力』以降も、ますます共感は膨らんで来ていて、氏の著作物が文庫化されるのを心待ちにしているような次第。
そういうことで時の流れとともに、この対談集の読書前の贔屓度は、赤瀬川>東海林となっていたわけだが、やっぱり読後もその序列が逆転することはなかった。とりあえず「老化」については赤瀬川寄りのスタンスでいっとこう。でもま、どちらも同じく「裕福な人」の語る「貧乏性」と「優柔不断」談なんですがね。才能があって有名でお金があったら、老化しても楽しいよね。元気でいられるよね。いいなあ。
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