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15 敵中漂流
デイモン・ゴーズ 著
新潮文庫
戦争ノンフィクション
投稿人:cave ― 00.08.05
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以前から「漂流もの」は好んで読んでいる。わりと最近読んだものでは、吉村昭「漂流」「たか号漂流」「エンディユアランス号漂流」同「南へ」「大西洋漂流76日間」などがある。それらはいずれもノンフィクションで(吉村作品もここではそう呼ばせていただく)、だいたい2つのパターンに分かれる。ひとつは、事故で漂流する破目になり、海上でのサバイバルののち陸地にたどり着いて終わるもの。もうひとつは、漂流ののちたどり着いた無人の陸地で、救助されるまでのサバイバルを描いたものだ。漂流するに至るまでの航海が探検や冒険目的である場合と、全くの不慮の事故である場合で、隊員の心構えや装備の条件に違いが出てくるが、基本的に彼らが闘うものは「飲料水」「食料」「自然の驚異」である。自然には天候的なものと生物的なものがあるが、これらが及ぼす困難の文章表現は、どの作品もそこそこ似かよってくるので、こちらが興味をもって比較しようとするのは、困難に対しておのおのがどういう対応をしたか、の違いになる。先に挙げたもののなかで、最もサバイバルに実用的なのが「大西洋漂流76日間」(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)で、これはもはや漂流する人向けのガイドブックとなり得る内容にまでなっている。
さて、本書もタイトルは「敵中漂流」であり、ノンフィクションなのだが、いわゆる「漂流の記録」ではない。「戦争の逃亡記」というのが正しいところだ。敵、というのは日本軍のことで、太平洋戦争開戦時、フィリピンに一気に侵攻しマッカーサー司令官をオーストラリアに敗走せしめたとき、現地で捕虜になったアメリカ人将校が、小舟でオーストラリアに脱出するまでの記録だ。ときどき停まるとはいえエンジンがあり、帆走も可能で、沿岸部を移動し所々で寄港して食料や水も補給でき、地図も銃も持っている。それでもこの漂流(航海)もかなり困難に直面しているが、日本軍という最大の困難の前では、その描写はどうしてもあっさりしたものに読み取れてしまう。わたしは途中で「漂流記」を読んでいるという意識を、「戦記」のほうに切り替えた。
そうしたとき、興味の中心となってきたのは、著者の最大の敵であり、圧倒的な優位を得ていた「日本兵」の描写である。現地の人間や軍から略奪し、徴用し、抑留し、殺戮する。人道的に許されないことを当然のようにおこない、原住民から恨まれ軽蔑される。その反感で著者はかくまわれて生き延びることができるのだが、そこに描かれる「日本兵」は、本当に現在の日本人と同じ民族なのだろうか?と思うほど残忍で野蛮な人種として描写されている。それでいて日本兵が一人になったときの優柔不断さのおかげで、著者は何度も危険を脱せたとも書いている。わたしが現在知っている日本人はそんなに悪党であれたはずがないと思ってしまうし、日本側からの視点で書かれた戦記などには、そんな「鬼畜」日本兵の描写はほとんど出てこないのだ。しかし、それが戦争だから、といって終わりにしたくはない。そのあたりは、はっきり真実を認識したい。
ひと昔前はスナックで軍歌を歌っている年配のビジネスマンをよく見かけたが、あのかたがたもそうやって略奪や殺戮に手を染めてきた人たちなのか?捕虜に拷問をかけて楽しんだりしていたのか?真実にフタをして知らん振りをすることに決めたのか?それともそういう「鬼畜」な日本兵は一人残らず戦死してしまったのか?そして、情けない表情でゲームなどに興じている今の日本人にも、同じことが再び起こせてしまうのだろうか?
ただの戦記ならともかく、漂流という自然との戦いと、人間同士の戦争という戦いがひとつのドキュメンタリーのなかに同居していることが、「日本兵」の非道な行為が誇張でなく、事実なのだ、という印象を強く与える結果となった。
わたしが思い込んでいる日本人像をもう一度いちから見直す必要を感じただけでなく、日本側から書かれた「日本兵=鬼畜」を実証する戦記を、その視点から洗い直して読んでみたいと思わされることとなった、後味のニガイ一冊。
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