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文庫本読書倶楽部
44
明るい旅情

44 明るい旅情

池澤夏樹 著
新潮文庫
紀行エッセイ集

投稿人:cave ― 01.06.14
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 著者の作品「ハワイイ紀行・完全版」(新潮文庫)を昨夏に読み、本サイトのコラム欄で触れ、おいおい当文庫欄に載せると書いておきながら、そのままにしてしまっていたが、新潮文庫・6月の新刊に、この「明るい旅情」がラインアップされたので、こちらの作品を取りあげることにした。
 本書は、著者の紀行エッセイのオムニバス版で、アジア、沖縄、ギリシァ、イギリス、中東など、各地の紀行を愉しめるばかりか、その「ハワイイ」に関する記述もあり、軽い気持ちで色々な場所の雰囲気を味わい想い描きたいという、よくばりで貧乏で多忙な読者にはぴったりの本だ。
 文庫腰巻には「注意!この本を読むと、旅の虫が騒ぎます!」とあり、梅雨空と不景気のダブル閉塞状態を一時でも紛らせてくれればと、私も期待をこめて手にした次第である。
 池澤夏樹の新潮文庫版は「背表紙」の色が好きだ。淡い紫。それもややブルー寄りの色で、著者の、特に紀行系の作品にはまことにマッチング感が良い。カバーのイラストも本書の内容と気分を上手に表現してあり、好ましい。
 さて、オムニバス形式ということもあり、一冊全体の印象は巻末の「解説」に任せることとして、ここでは、偏屈ものの琴線に触れた瑣末な部分をすこし紹介することにしよう。

 冒頭は、「汽車」のはなしから始まる。汽車とはもちろん「蒸気機関車」こと。私にとってもそうであったのだけれど、興味を持つべく「もの」の選択肢がいまのように多くなかった子供の頃、汽車の存在感はたいそう大きかった。
 自転車で行動できる範囲の外が「世界」であったから、印象でいえば、「外」に繋がっているのは道路ではなく「鉄路」だった。
 威圧感を持ち、呼吸し、咆哮する「蒸気機関車」の牽引する列車の重厚さが、外の世界へ飛び出そう(旅に出る)とする私に、より大きな決心を求めていたような気がする。著者の記すとおり、それに較べると電車は、まるで軽く薄っぺらで、大きな好奇心や冒険心などを喚起することがない。
 著者はまた「どんな土地を撮ったどんな写真でも、ほんの片隅に線路が写っているだけで実に親しいものになる。」と記しているが、私も全く同感で、「しゃれた」表現ができるものだなあと感心してしまった。
 
 沖縄に関する章は、軽く爽やかな旅行記になっていて、読むと、腰巻文のとおり旅の虫が騒ぎだすのだが、日本のなかで唯一の「絶対的な孤立県」という見方に添って書かれた文章を読んでのち、沖縄を旅すれば、現地をとらえる感性の層を一枚増やせるように思われる。

 イギリス、それに北欧に関する章では、「大人」というものの定義を考えてみるのが面白い。
 旅行者だから、現地での交通機関などのトラブルはつきものだが、著者の体験にもとづいた、それぞれの国の人々の対応例が愉快に紹介されている。
 これを読むと、今の日本ではほんとうに隅っこに追いやられてしまった、「大人」の振る舞いや威厳みたいなものが、いまだ確固として息づいているさまを伺い知ることができる。
 欧州では、どの国でもきちんと社会の中心に大人がい、そして大人はみんなきちんと仕事をする。
 日本はその両方ともをうやむやにした社会にしてしまった。都合の良い片方だけを求めるのはあまりにもムシが良すぎる話だ。したがって、私もすこし耳が痛く感じてしまった。

 他にもクレタ島、イスタンブール、ナイル河遡行の旅など、魅力に溢れる各地の記述があり、どれをとっても違った視点から愉しめる。
 著者は翻訳家でもあるので、当然現地の人々との肩の凝らない自由な会話がある。また、自然や歴史、美術、考古学的な部分への考察も随所に織り込まれている。すなわち、知的好奇心までも満たしてくれる作品となっている。
 文体はしっとりと、そして軽くて落ち着いている。同行者の存在を感じさせず、あたかも読者が同じ場所に同じ時を共有していて、同じつぶやきをしているように感じてしまえるのである。
 先に述べた意味の、「大人」のくつろぎを感じさせてくれる良書だと思う。


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