おかやどかりの飼育

39話
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なぜオカヤドカリを飼うんだろう

↑「オッサン、あたしゃ脱皮で寝てまっさかい、
あんじょう取り繕っといておくれナ」
(2007.03.17撮)


 ヤド六は今、砂に潜って寝ている。潜ったのは4月14日あたりなので、そろそろ40日が経過する。通常であればぼちぼち出てくる頃合いだけど、今のところその気配はない。二度寝でもしているのか、まだ脱皮の最中なのか、すでにチョンボで死んでいるのか、それはわからないけれど、まあ、いつも通りのヤド六任せだ。そんなわけで新しい写真も撮れないので、今回はうだうだと思ったことを書き連ねてお茶を濁しておこうと思う。ページも軽くて済むし、たまにはこういう回があっても良いでしょう。

 初めてオカヤドカリを飼ったのは、子供の頃だ。今から思えば、あれは飼うと言えるようなものではなく、単に死ぬまで捕えていただけ。幼稚園か小学校低学年の頃の昭和30年代後半のこと。毎年、夏になると、近所の商店街の同じ場所に露店のヤドカリ売りが大きな金盥を並べていたので、それを見かけると祖父母などにねだって小遣いをもらう。普通は美しい貝殻で選びたくなるものだが、そこは当時のガキである。ケンカ強そうなのと高いところに登っているやんちゃそうな個体を数匹、入念に選んで買った。一匹いくらぐらいだったかは忘れてしまったが、テキヤのオヤジとのやりとりも楽しかった。

 元気な個体を選んだのは、長生きをさせるためではなく、玩具としての耐久性を重視したのである。ヤドカリに限らず、カエルもザリガニもカブトムシも、おしなべて玩具であり消耗品だった。ヤドカリを家に持ち帰ると、テキヤのオヤジに聞いた通り、庭の木の枝を伐って適当な形に整えたものを、カマボコ板の裏から釘を打って立つようにし、古い洗面器の真ん中に立てる。少量の水を入れて、キュウリやナスの輪切りを転がしておく。それが「オカヤドカリ入れ」である。

 残酷なように思われるかもしれないが、ビデオゲームもない昔のこと。里山や用水路で捕えられてきた生き物たちは、それぞれ手近な容器にキープされて遊戯のキャラクターを演じ、出番が終わるとまたそこに戻されるのである。縁側の廊下には、空き箱や積み木で坂道や迷路のセットが組まれ、牽引用のひも付きミニカーが用意され、それぞれの生き物は通過時間や登坂性能を競わされる(ま、SASUKEみたいなもんですな)。また格闘用の土俵やリング(菓子箱の蓋とかだが)で王者を争わされ(ま、K-1みたいなもんですな)、ガキどもが飽きるまで耐える。そうして子供たちの夏の長い一日を楽しませるのである。

 そういった虫たちの中でも、オカヤドカリは一目置かれていた生き物だった。他の生き物たちは、捕虫網やタモ網や釣り竿で自給してきたものだが、オカヤドカリだけは購入しないと入手できなかったからで、そのぶん、多少は大切に扱われたように思う。ではあるけれど、いかんせん南国の生き物。金盥での飼育では秋の訪れとともに全滅するのが常で、ガキどもはまた次の夏のテキヤの出店を心待ちにするしかなかった。


↑ヤド六(ムラサキオカヤドカリ)の複眼。
世界はどういうふうに見えているのだろう。
(2006.12.10撮)

 今書いたようなことは幼児期の話で、さすがに小学校を進級してくると、観察・飼育のほうの興味が強くなってくる。そうして、わたしの家の二坪ほどの小庭に面した縁側にはズラリと生き物の飼育容器が並ぶこととなった。

 時期は同時ではないにしても、野山で拉致してきてそこで飼育した生き物をあげると、ザリガニ、サワガニ、フナやタナゴ、ドジョウ。アマガエルやトノサマガエル。イシガメやカナヘビ。兜(カブトムシ)、源氏(クワガタムシ)とそれらの幼虫。カミキリムシ、カナブン、ケラ、コオロギ、スズムシ、バッタ、トタテグモ、ジョロウグモ。ゲンゴロウ、ミズカマキリ、マツモムシ、ヤゴ。クロアゲハやキアゲハ(幼虫)などなど。果ては、ヤケヤスデやコウモリまでいた。また、購入して飼っていたものが、キンギョ、ジュウシマツ、セキセイインコなど。それにオカヤドカリ。

 ものごごろが付いたとき、既にわたしより古株のニホンネコがオスメス二匹居た。もちろん去勢など思いもよらない頃で、毎年、縁の下で小猫が啼いた。天井裏ではクマネズミが毎夜ダッシュし、走り元(流し場)には巨大ドブネズミが出没。居間ではアシダカグモがゴキブリを追い、庭にアオダイショウが出たこともある。もはや飼っているやら棲んでいるやらよくわからんような按配で…。

 さて、その頃、そんな多種さまざまな生き物たちを、どうやって飼っていたのかを思いだしてみると、実際、水槽なんてなものは家に一つもなかった。大きめのガラスの丸い金魚鉢(タンブラー形)が一つと、ブリキ枠に金網張りの虫カゴが数個あったくらいで、当時はプラケースなどまだ世の中にほとんど無くて、まれに少年科学雑誌の付録なんかに透明塩ビ製(?)の観察ケースが付いてきたくらいか。

 水ものは陶器製の火鉢を使うか、お歳暮でいただいた味付海苔の四角いガラスの大瓶だ。虫たちの容器は、これもお中元などでいただく、さまざまなブリキ缶である。大きな円筒の砂糖缶や四角い花かつお缶などのフタにキリで空気穴を空けて使っていた。当然中味が見えないので観察などはできない代物である。

 今思うに、中も見えないカツオブシ缶に苔やシダを入れ、ヤスデを飼って一体何を見ようとしていたのやら(笑)。カブトムシやクワガタの成虫用には、木製リンゴ箱のフタを枠だけ残して外し金網を張って、腐葉土を入れた大きな飼育箱を作ったのを憶えている。コウモリはダンボールのミカン箱で飼っていた(早々に脱走されてしまったが)。そして、オカヤドカリはというと、オープンエアの金盥である。

 そうしていろいろな生き物を飼い、それぞれの生き物に与えるエサや容器などを工夫して楽しんできたのだけれど、あたしの成長とともにそれらの興味は、アッサリとメカニカルなものや音楽などに変わり、酒を覚えさらに色気づくに到って、すっかりアタマから消去されることと相成った。ま、このあたりが俗人のあかしなのであるが…。



 で、長い時が流れ、ふたたび縁が巡り来て、金魚やヤドカリたちと付きあうことになった訳だが、過去に馴染んできた多種の生き物のうち、何故「オカヤドカリ」が選択されたのかを考えてみることにしよう。
 
 研究対象でもなく商品としてでもなく、単に何気無い生物飼育趣味の観察対象として、好奇心を引かれ、見て愉しめる事象(つまりドラマティックな見もの)は何かと考えると、乱暴に言ってしまえば、「食事のさま」と「繁殖のさま」(プラス生物によっては「変態(字が一緒だなw)のさま」)に尽きるのではないか。これ、いみじくも連中が生きてゆく最重要の営みであり、ヤツらはこのためだけに生きているのだとも言える。いわゆる種の保存、遺伝子の継承のための行為のために。まあ人間も同じなんだけどね。その点に注目して、先にあげた、わたしが子供の頃飼い殺して来た生き物たちとオカヤドカリを比較して見ると(齧歯類や犬猫、トリ類はこの際除く)…

 まず、食べ物のこと。生き物を飼っていて、まずやらねばならない世話は「餌を与える」ことで、旨そう(ホントのところはどうなのかわからないけれど)に食べるところを見るのが、飼い主の日常の楽しみの大きな部分を占めるのだが、これ、たとえば金魚だと、いちおう「金魚のエサ」のみで完結してしまう。ま、イトミミズとかアカムシとか、ウドンやボウフラやサシ(ウジ虫)なんかを食わしてもいいんだけれど、水も汚れることだし高価だし面倒なんで普通はしない。昆虫なら、キュウリとかタマネギとか、その種に適したものを与えていればそれで完結する。チョウの幼虫などは、食べる植物がほぼ一種に決まっていて他の餌には見向きもしない。ところが、オカヤドカリは雑食である。それも陸棲なので、飼育水の汚染を気にかける必要もなく、皿の上にさまざまな食い物を置いてみて様子を窺うことができる。ヒトの晩飯のオカズの残りばかりか、銀シャリもフランスパンも喰う。ニンジンもジャガイモも喰う。刺身もスナック菓子も喰えば、砂や木材まで齧っている。こんなに気安く、さまざまな「食事のさま」を見せてくれる、このサイズの生き物つうのは他にちょっといないのではないだろうか。

 ついで、繁殖行為のこと。あらかじめ除くと言っておいて何だけど、トリや犬猫の交尾を見てもあまり楽しいものでもなく、飼い主には今後発生するさまざまな厄介事が脳裏をよぎるに違いない。昆虫の産卵は、翌年への楽しみを与えてくれるが、大概、親の方はそれで生を失ってしまい、飼育してきた個体に対する愛着は途切れることになる。サカナ類は、稚魚が孵ると心和むものがあるけれど、これも後々は水槽の増設等がタイヘンで相応の覚悟がいる。オカヤドカリは、海の生き物だから飼育下での繁殖は容易ではないが、放っておいてもそれで親の生命が終わってしまうわけでもないし、凝ろうと思えば困難な繁殖に挑戦し、それを楽しみにすることもできる。しかしなにより他の生き物に比べて、繁殖以外の見どころをたくさん持っているので、あまりそれに拘る必要がないのだ。

 そのオカヤドカリの多彩な見どころと、お気楽どころをあえてあげてみよう。まずは、カニの仲間のくせに陸にいて、表情に愛嬌があり、丈夫で何でも食べる不思議。食事風景をはじめ、いろいろな仕草を楽しめること。左右の大バサミを、手のように器用に使う面白さ。動く日にはよく動いてくれ、それも極端に素早いということがないので、じっくり観察させてくれること。

 また、跳ねないし飛ばないことも非常にありがたい。ケースのメンテナンスなど、こんなにラクにできる生き物はいないのではないか。貝殻を背負っているので、手に取りやすいことも吉。水中に暮らす他のエビカニ類よりは扱いやすいし、虫を怖がる子供でも容易に触れることができるので、親しみが増す。木にも登るし、うたた寝もする。水浴もするし、砂にも潜る。他の個体とコンタクトもするし、ケンカもする。危険を感じると貝殻に引っ込み、大鋏でフタをしてしまうのも面白い。今ヤド六が砂に潜っているように一か月以上も砂に潜り続けて慎重に脱皮をして成長する不思議。どうして感知するのかわからないけれど、大潮の前後には急に活発に行動する謎。など、見どころ満載のイキモノだ。

 そして何より、長生きだというところ。脱皮を繰り返しながら成長し、それにあわせて宿貝を変えてゆくのを見る楽しみ。一個体と長らく付きあえる小生物。今までいろいろな生き物を飼ってみたけれど、ズボラな飼い手にとって、こんなにお気楽で多彩に目を和ませてくれる生き物は、ちょっと思いつかないなあ。そういうワケで、良い齡こいてなお、ヤド六とのつきあいを続けているのである。ま、いくら長生きでも「飽きた」と言われちゃオシマイではあるけれどね。



↑わが家に来てから二年がたったころのヤド六。
ガキどもがまだ小さかったので、結構オモチャにされていたなあ。
(2001.09.09撮)
↑来宅三年目の、とある宿替え。
慎重に貝殻を検分したのち、すばやく変わってみる。
(2002.07.02撮/上3枚)
↑五年目のある日。
このときの貝殻にいまだに入っている。つまらん奴だこと。
(2004.04.29撮)
↑そして今年。八年目を迎えたヤド六。
ようやく、少しはムラサキらしい色になってきたかな。
(2007.01.30撮)

↑上手にハサミを使ってガジュマルの葉を千切り口に運ぶ。
もはやガキどもは成長し音楽やドラマやゲームに夢中で、ヤド六へのとばっちりは無くなった。
「昨今、鬱陶しいのはオッサンだけやなあ」
(2007.03.17撮)


 まあ、「飼育する」ということになると、いくらお気楽とはいえ、注意すべきさまざまなポイントがあり、常に環境維持や健康に気を使ってやる必要があるのだが、ここではその詳細には触れない。今回は、かつての虫好き小童が大人になって、何故ふたたびオカヤドカリと付き合いだしたのか、その飼育の魅力をダラダラと再考してみましたです。

 主人公のヤド六は、今日も今日とてまだ寝ている。しゃあないなあ。ではこのへんでご機嫌よう。



↓「首尾よく脱皮できりゃ、またお目にかかりまっさかい、よろしく!」
(2007.03.17撮)
2007/05/21(Mon)

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