ぼやテツVol.9は、また妄想編です。実家の亡父のアルバムから、ちょいと気になった写真を拾ってきました。下の写真であります。まあブツは乗合馬車なんで、鉄道じゃないんですが、いちおう「輪っか付き」ということで。
さて、オヤジのアルバムに、なんのキャプションもなくスクラップされていたこの写真。ピンも甘くて馬車の車体に書かれた文字も読めません。しかし手がかりはこの一枚の写真に写っているものが全てであります。幸い、馬車溜まりの天蓋に架かっている看板の文字は読めます。「鳥羽 松阪 津 方面 のりば」。それとアルバムの配列からして、撮影時期は昭和30年〜35年くらいの間です。これをとっかかりにして想像を巡らせ、複合キーワードを駆使してYAHOO!り、Googleり、Bingりました。しかしBingりって、なんかイングリモングリみたいですな(笑)。検索しまくりの結果、なんとなくこの写真に写ってるモノが見えてきましたわ。
まず最初は、乗合馬車というワードをメインに、三重県の伊勢神宮周辺の公共路線交通のスジで検索したのですが、ひっかかりません。まあ明治大正ならともかくも、昭和30年ですから、鉄道・バス網も発達していますしねえ。それで、写真をよ〜く見ましたところ、どうも「鳥羽 松阪 津 方面 のりば」のカンバンは、この乗合馬車用のものではなく、鉄道か路線バスのものなんではないかと。ようするにここは駅前ロータリーなのではないかと。背景の空間もなんとなく駅の構内のような風情がただよってますしね。部分拡大↓
それで検索ワードを観光馬車に変えて見たところ、それらしきモノに当たりが付いてきました。まず見つけたのが、二見浦の観光旅館のサイトです。二見浦といえば夫婦岩で有名な観光地。あたしも小学校の修学旅行は二見浦に泊りました。まあ関西の修学旅行の定番でしたからね、お伊勢詣りは。「松嶋館と二見の歩み」というページに、観光馬車の写真があり、「昭和50年代まで、二見のバスセンターから夫婦岩まで観光客を運んでいました」とのキャプションが付いてます。写真が小さくて馬車の形状はよく見えませんが、たぶんこいつでしょうね。
昭和50年代まで運行していたのであれば、あたしも見たり乗ったりしたことがあるのかもしれません。全く憶えてはいませんけれど。ほかのサイトやブログにも、「また馬と云えば伊勢市とか二見町へ行くと観光馬車があり、乗った記憶がありますが後ろの車に乗るので、馬の匂いが臭かった思い出があります(浜島町の紹介)」 、「おばあちゃんに連れられて山田上口駅から国鉄に乗り二見駅へ。そこから海水浴場までは歩いて行きます。賑わっていましたね。人々満載の観光馬車が走っていて、馬の糞が道の真ん中に所々に落ちていましたっけ(シェフの部屋)」などの記述も。どうやら写真は参宮線の二見浦駅(ふたみのうら えき/あたしら、ふたみがうら と言ってたけど駅名だけは読みが「の」なのね)の風景のようです。
そして、「観光、行楽の玄関口としての黄金時代は、昭和10年代であつたが、その最盛期には、駅前に人力車や馬車が常駐し、修学旅行の団体列車の入り込みも多かった/紀元2600年祭(S15)には連日団体列車が到着し、多客で賑わい、人力車2台、観光馬車5台が常駐していた(現場の素描二見浦駅)」あたりを読むにつけ、ほぼこの写真の素性が判明したのであります。
でもって、ついに決定的写真を発見!!コレ→「伊勢名物御福餅号(夏をあきらめて)」←ずっと下までスクロールしてね。やった〜パチパチパチ。
こんなくだらないことして遊んでる場合じゃないんですけど...ま、妄想なんでお許しを。