2007年11月アーカイブ

金魚長屋(4)


 暗闇の中、突然の誰何に面食らった二人だが、弥三は、うろたえつつも傍らに用意してあった蓆を足先で引っ掛けて穴を隠そうとし、留吉は手燭の明かりを侍の方にさし向け、物件を影の中に沈めた。ま、頼りない二人にすれば咄嗟ながら上々の首尾である。まったく欲というものは侮れない。

「お、お侍、お許しを。け、決して怪しいモンじゃござ......う、あれれ? じ、神内さんじゃあ...」

 留吉の持つ手燭に照らし出された若い浪人は、なんとこの長屋の住人、神内善三郎であった。神内は前年の桜の頃に、ひょっこりこの長屋に越してきた二十歳過ぎの青年武士である。侍には珍しい穏やかで親しみのある性格と時に垣間見える博識もあって、長屋の住人達ともすぐに溶け込んだ。丁寧で腰の低い言葉遣いの中に、時折上方の訛りも覗いたりするのだが、その素性はいまだ誰も良くは知らないようである。

「なんと、弥三殿と留吉殿でしたか。これは驚かせて失礼いたした。こんな奥の井戸端の暗闇でゴソゴソしておられたので、てっきり盗っ人かと思い申した」
「えへへ、あたり!」
「こら留、余計なことを言うんじゃねえ!...しかし肝を冷しましたぜ、イキナリ背中の方からおっかない声が飛んで来たもんで。ふうう」
「いや、今宵、長屋の店子は五兵衛殿のお招きで皆さんお出掛けと聞いておりましたから、せめてそれがしが留守中の用心棒でもと思いましてな...」
「ええっ!大家のォ...オイラ何も聞いてないぜ!弥三兄ィ」
「俺も初耳だな。神内さん、これはいってえどういう事なんですかい?」

 神内の話によれば...こんな襤褸長屋の管理を請負っている大家の五兵衛だが、なかなか狡獪な老人で、日々世渡りにだけはマメに気を配ってきたようだ。先日、町役(町年寄)から呼びだされ、おっかなびっくりで参じたところ、町役、何やらお奉行様からお褒めの言葉とご褒美を賜ったという。その手柄には五兵衛の普段の気配りと胡麻擦りが一役買っていたというわけで、ご褒美のお裾分けにありついた。喜んだ五兵衛は店子連にも祝いの一献をと触れてまわり、今宵、長屋総出の宴へと運んだようだ。ま、吝嗇な五兵衛のことだからどうせ素麺に酒一本てなところなのだろうが。

「あの因業爺い!どうして俺と留だけが蚊帳の外なんでェ」
「いや、どうも店賃に滞りのある者は外す。一切知らせる必要もなし、と言うようなことでした」
「何でェ。皆、いつもピーピーピーピーほざいてやがるくせによ。店賃踏み倒してるのはオイラと兄ィだけてえのかい!大体が、あの遊び人の慎之介なんか、払ってやがるわけねえだろよ」
「慎之介殿は、ご実家のほうが払われているのではないかな。次男坊とは申せ本勘当されたわけでもなさそうですし、あれだけの大店ですから体面もありましょうしなあ」
「ふうん。まあ頭にゃあ来るが...しかし留、考えてみねえ。こちらにすりゃあ今宵皆さんお揃いでお呼ばれってのはかえって好都合ってもんだ。なあ、あんな因業爺いのセコい素麺酒の驕りで喜んでる連中の馬鹿面が目に浮かばぁ。」
「そ、そうだった!そうだった!ははは。オイラにゃ千両箱...」
「シャイ!、あ~、そういう事なら神内さん。長屋の留守番は俺達が帰ェったからもう大丈夫ですぜ。まったく大家も長屋の連中も、お侍に留守番をさせるたあ何てェ無礼な奴等だ。ったくご苦労様でございました。ささ神内さんも、追っかけ素麺のご相伴に駆けつけてくんなせえ。もうできるだけごゆ~っくり呑み食いされて、因業五兵衛の巾着を空っ穴にしてやっていただきゃ、こっちの気もスカーッと晴れるってもんで...なあ、留。」
「はは。ど~ぞど~ぞお呼ばれに。オイラは明日、鰻喰う」



「いや、お気遣いはありがたく存じますが、それがしはそうはいかんのです」
「神内さん。いくら下衆な町人どもとの戯れとは言え、空きっ腹にゃ変えられませんや。お若いんだし、この際お武家の見栄は止しにしといて、とりあえず喰っとくのが吉、つうもんですぜ」
「いや、しかし、そうも」
「ネェ、喰うは一時の恥、喰わぬは一生の恥ナんてェなことも...」
「その、実はそれがし、五兵衛殿にはもう半年も不調法致しておる身なモンで...」
「ありゃ、神内さんが踏み倒しの三軒目!」
「それに、それがしも素麺などよりは鰻の方をご一緒致したい。エヘン!さてもおふた方、あの蓆の下によもや蒲焼きなど隠してはおられまいのう...」

 暗がりを指す神内善三郎の温厚誠実な眸に一瞬妖しげな光が奔った。

金魚長屋(3)


「こ、これはッ!...」 弥三はあまりの驚きに絶句してしまった。

 それもそのはず、葵巴(鞆絵)は、天下の古狸、徳川家康によって幕府の権威の象徴とすべく、強烈なCI(コーポーレート・アイデンティティ)戦略を施された御紋章である。もともとは松平家が葵を御神紋とする賀茂神社を崇拝していた縁からのようだが、その葵紋の一般使用を制限し、紋を勝手に使用したり不敬な扱いをすることを禁じた。関ヶ原合戦の後もまだ方々で燻り続けている豊臣方の大名や農民庶民に対し、朝廷や天皇の紋章である菊や桐を超越する、唯一無二の権威を意識づける畏れ多きツールとして奉りあげたのだ。実際、八代将軍吉宗の時代には明文化された法令も出され、葵紋を無断使用した浪人が死罪になったという記録も残っている。ま、詳しいことは知らんけどね。

 武家社会でのルールとはいえ、その畏れ多き葵の御紋に毎日小便を引っ掛けたあげく、真ん中から割ってしまったというのだから、いかに町人といえども明るみに出れば、見せしめにキツイお仕置きの沙汰が下されるのは必定だろう。二人のやもめ職人は、濡れ手に粟と喜んだのもつかの間、一転、御紋不敬の咎人とあいなってしまったようだ。

「弥三兄ィ、こりゃ公方さまの御紋...」
「明かりを消しねィ!ああ、どえらいものが出やがったぜ。留...、ま、短い間の付き合いだったが、あの世に行っても俺のことを忘れないでくんな」
「え、ええっ!ど、どういうことだよォ」
「見てみねえ、お前ェが馬鹿みたいにぴょんぴょん跳ねたもんだからよ、公方様の葵が真っ二つに割れちまったぜ。この狼藉がお上に知れりゃ獄門、いんや鋸挽の刑は免れめえ。小塚ッ原でよ」
「何言ってやがんでい!兄ィだって毎日毎日小便を引っ掛けてたんじゃないか。公方様に小便かけといて只で済むもんかい!」

「しっ...。大きい声を出すなよ。まあ落ち着け。鋸挽はこれが岡っ引きに嗅ぎつけられたらの話でい。今は幸い俺とお前ェの二人だけだ。このまま隠しちまえば分からねえ、バレなきゃどってことありゃしねえんだよ。それより先にお宝だ。それも葵の御紋付き...この際はさっさと中味を頂戴してから次の算段をしたほうが利口だぜ」



 狼狽えていた留吉だが、そこは現金なもの。「お宝」を思い出したとたん我にかえった。二人は周りに気を配りながら、手早く上にある残土を取り除いて石の蓋の全てを露出させた。中央に大きく葵巴の紋章を刻んだ黒御影の矩形が闇にぼんやり浮かび上がる。無残にも紋を縦断するように一本の亀裂が走っている。

「ううむ。でかしたぞ、留」
「何だい、薮から棒に」
「この石蓋、見たところ厚みも相当ありそうだ。二つに割れてなきゃ俺達二人の力では到底持ち上げられないとこだぜ。人を呼ぶわけにはいかねえしよ」
「でも、おかげでオイラは鋸挽...あ、そうだ!弥三兄ィ、首尾よく中味を頂いたあと、この蓋を兄ィがわからないように掛け接ぎすりゃいいんだよ。兄ィの腕は評判だしよ、お茶の子さいさいだろ、あとは知らんぷりしてりゃオイラの首も安泰」

「お前ェはほんとに馬鹿だな。俺は鋳掛屋だ。鍋釜なら持って来やがれってとこだが、鋳掛でどうやって石を接ぐんだ、つうの!」
「なんでェ。石も接げない鋳掛のくせに大きな顔してんじゃねえや!ああ首が涼しいなあ。仕方ねえ、早いとこ物騒なこの公方様をどこかへ隠してしまおうぜ」
「しかしこの重さじゃそう遠くへは運べねえな。留、お前ッちの縁の下が手近だ。とりあえずそこに放り込んどくことにしよう」

 割れた石蓋に両側から手を差し入れた二人は、腰を落として踏ん張り、何とか持ち上げて留吉の長屋の縁の下へ運び込む。さらにもう一片を運び終え、畳で覆って一息つくと、期待に鼻の下を伸ばしながら、手燭を手に再び穴のところへ戻った。
「さて、と。お宝はあるかな。留、穴ン中を照らして見ねえ」
「よし来た。エヘヘ、千両~箱ヤ~イ、っと」
 並んで穴の奥を覗き込もうとした刹那、二人の背後から声がかけられた。

「その方ら、そこで何を致しておる」
 驚いて振り返った二人の目に、長身の侍の輪郭が映った。

つづけ!

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