2015年6月アーカイブ

浅き夢見し麻痺もせず。正月開けも初仕事を終えて一休みしていたら、急に強いめまいに襲われた。小脳梗塞の発症から退院までの体験ルポルタージュを6回シリーズでお届け。第一回は、自宅で倒れたところからMRI検査を経て入院を宣告されるまでのお話であります。

ふいに眩暈がやってきた!

ひっくり返ってからはやひと月が経った。お正月休みをだらだらと過ごしたあと、松あけて1月7日午前中から初仕事にかかり、遅い夕飯に七草粥を喰ったのであったが、一息ついて新聞を読んでいたらふいにクラクラと強い眩暈がきて、卓袱台に突っ伏さざるを得なくなり、その後、座っているのも辛くなったので床に伏せたら、身動きが取れなくなってしまった。

しかしアタマをある特定の位置から動かしさえしなければ痛みも苦しみもないことに気づいたので、そのままズルズルとフトンまで這って行き、とりあえず眩暈の治まるのを待つ事にした。

あたしには元来、年に2,3回は必ず「視界がチラツいたあと頭痛に襲われる」という持病が巡ってくるので、最初は少々キツ目の "それ" が来たのかと思った。ま、正月松の内はパソコンモニタから離れて酒を呑んじゃ寝て読書ばかりして過ごしていたから、久々の仕事モードでお目目の神経がびっくりしたのかと思ったのだ。

ただ、今回の症状は「いつもの」とはちと違うのも確かだった。俯せになり頭を右に向けた状態でいれば特に問題はなく、手足も自由に動かせるし、読書もできるし、物も飲み食い可能、痛みも不快感もない。ところが、頭の位置を少しでも動かしたと思いきや、強烈な眩暈と吐き気がグワ~ン!と襲ってきて、「うわああ!!ゲロゲロ~ハレホレヒレハレハ」となってしまうのである。

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このディスプレイがPCなら良かったのに

とはいえ、休み明け一両日中にご提案する約束の一件を抱えていたので、仕事はせねばならない。しかし現状ではアタマを持ち上げるのも不可能なので、バファリンを飲んでじっと症状が治まるのを待つことにした。夜中、二度ほど寝返りのときとトイレの際に頭を動かす羽目になり、嘔吐してしまったが、時間が経つにつれ徐々に頭も動かせるようにはなった。

あけて8日の朝になったが、まだ立つ事はできそうにない。なんとか仕事ができる状態まで早く回復しないとマズいので、このまま軟弱なバファリンに頼ってもいられない。こりゃ医者に見てもらって、効き目の強いクスリを処方してもらうのが先決だと決断した。

点滴後のMRI検査で即OUT!

頭を起こした状態だと眩暈と吐き気に襲われて歩けないので、近所の病院から借りて来て貰った車椅子に頭を下げた状態で突っ伏して乗り、嫁に押されて外来診察へ。頭さえ動かさなければ普通に話せるし説明もできたので、とにかく眩暈と吐き気を抑える治療と処方をし、点滴もしてほしいと頼んだ。

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点滴好きだし病院食も好きだ

あたしは点滴&注射大好き人間なんだ。仮寝台で点滴をしてもらい回復を待ったが、多少気分良くはなったものの、まだデスクワークができる状態には至らず。まあ、今日一日は仕事を諦め、翌朝からイッキにカタをつけるしかないかと思った。

点滴後、ふたたび診察した医者は、症状は緩和されたものの眩暈と吐き気の原因がはっきりしないので、すぐに脳のMRI検査を受けた方が良いと勧めた。この病院にはCTしか設備がないので、他の病院の医者を紹介してくれるという。

もう今日の作業は諦めた後だったので、この際はと忠告に従って検査を受ける事にした。タクシーを拾って、紹介された病院に行きMRI検査を受けたところ、脳神経外科の医者は、ディスプレイにあたしの脳の輪切りを見ながらあっさりと言った。

「小脳に脳梗塞の痕跡がありますので、このままただちに入院していただきます」

「おいおい!そりゃ困りまっせぃ」と思ったが、現にまだアタマを持ち上げると眩暈に襲われる。脳梗塞...つうと、オシム、ミスターG、高山善廣のアレかいな。しかしあたしは手足指先までちゃんと動きまっせい、ちゃんと喋れまっせい、目も見えてまっせい!と強がっては見たものの、バーンと診断結果を突きつけられると、やはりふにゃふにゃと...。

ああそうなんや、『脳梗塞』ですかいな。そらバファリンでは効かんわ...と年貢を納める事にしたのでありました。(2008-02-07 掲載記事を復刻)


小林製薬のナットウキナーゼ&DHA&EPAセット

高性能ラジオブームの旗手SONYスカイセンサー5x00シリーズ

あたしの青春時代、五感のうちの嗅覚についての象徴といえば、"花王フェザークリームリンス"だったのだけれど、匂いは書いてもわかんねえだろな~。ま、似たようなものだけど今回は、 "音"に纏るおはなし。

今でこそ、音を我がものにするには、MPEGやらなんやら、どえらいテクノロジと多数の選択肢が溢れかえっている感があるが、当時はいたってシンプルなのであった。小学低学年の頃はオープンリール録音機の時代で、一般家庭ではよほどのマニヤオヤジがいる家か、日舞や長唄のお師匠さんちでしか、自分で録音するなんてことは叶わなかった。

なので大概のガキはそういうことを望みもせず、ラジオのメカに痺れていたのである。むろん、レコードオーディオは今以上に盛り上がっていたが、ガキの手にかなう価格のオモチャではなかったし。ポータブルプレイヤーで雑誌付録のソノシートなんかを聴くのが関の山だった。

その後、当時の若者の流行情報源であったところの深夜放送需要をあてこんでか、高性能ラジオが相次いで発売された。AM/FM/短波3種受信なんて多バンドラジオのたぐいである。SONYの「スカイセンサー5x00シリーズ」が代表株か。ナショナルの「吠えろクーガ!」とか、それはもう賑やかだった。

ところが、1970年ごろからだったか、コンパクトカセットがイキオイ普及しだして、いわゆるラジカセに焦点が移行する。しかしあの頃の日本の(特にSONY)インダストリアルデザインの押せ押せムードは勢いがあったし、オトナはともかく我々ガキの心にはズシン!と響いたなあ。ツマミに触れる触感なんかに痺れたモノである。「ど~だい!え! メイド・イン・ジャパンだぞ」って、made in Japanの感じが誇らしかったものなあ。

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※photo:SONY CF1900と筆者(1981年)

東芝「Scoop」から SONY 「Pro1900」へ

裕福な家庭に育ったわけではなかったので、高級な機種を手に入れたことはない。だけど何故かラジカセには強い思い入れがあったのだ。一番最初は小学校の4,5年だったか。まだ深夜放送に染まるトシでもなかったのだが、わが家にコンパクト・カセットコーダーがやってきた。これは所謂ラジカセ(ラジオ・カセット・テープレコーダー)ではなく、単なるカセットレコーダー&プレイヤーである。

大きさはVHSテープをふた回りほど大きくしたくらい。当時としてはかなり小型化されていた機種で、たしか東芝製の「scoop(スクープ)」という製品だったと思う。貧乏なくせに英語でも学ばせておこうという、親のムリな皮算用であったのだろうが、あたしはこれで英語を学んだ記憶はない。

小学校の学芸会などで活用したのち中学になり、深夜放送全盛期に入って、ラジカセが主流になりだしたのだが、早期から「scoop」を与えられていた手前、新しいラジカセをねだるわけにはいかなかった。

友人達が自分の5バンドラジオなどを自慢しだすころになっても、あたしはひたすら耐えた。安物のラジオの前に「scoop」を置き、物音を立てないようにしてラジオ番組や曲を録音していたのだ。これを勝手に「空気録音」と呼んでいた。録音中、オカンの「ご飯やで~」の声に激怒したことが数知れずあった。何故イヤホンジャックとマイク端子を繋がなかったって? 意地ですね。そのうち最高のラジカセを手に入れてやる、という。

あの頃ってば、穴の開くほどカタログを見つめたものだ。ラジカセに限らず、単車やクルマでもだが。今の物価と比較するとかなり高価なものだったし、それだけに自分にとって完璧な選択が必要だったのである。で、あまり記憶がさだかではないのだが、あたしが「コレダ!」と惚れ込むラジカセがなかなか登場しなかった。

SONYの「Studio 1700」(CF1700)というのが発売されたとき、かなり心が動いたが、ボディが大振りなのと、円筒形のボタンと、オンオフのときの触感が少し理想と違うと思い耐えた。このあたりの前後関係がどうもよく思い出せないのだが、先にコンポステレオセット(SONY Listen 2000)を買ってしまったのかもしれない。

そうして満を満を満を持して待ちに待ち、発売されるなり「コイツヤ~ぁ、コイツヤっ!」(←くしゃみ講釈)と即購入したのが、「SONY Pro1900」であった。テープ駆動ボタンのメタル質感がやや気に入らなかったが、あとは完璧!!であった。つまみのグレーのトーンといい、スライドする感じといい、デザインサイコー。一日中眺め続けたものである。

それだけ愛したPro1900なのであったが、結局、あっさり誰かに譲ってしまったなあ。その後、あれより欲しいと思う製品に出会った覚えがない。ま、ラジカセ自体に興味が無くなったのでしょうねえ。

当欄を書くにあたりウエブをうろついてましたら、見つけました。ラジカセサイト!なので、こちらに紹介しておきます。当欄本文中に記述のある機種画像も見られます。昔のラジカセに思い入れのある方はお時間のある時にぜひ一度。→「初期ラジカセの研究室
「ラジカセ」という言葉はパイオニア株式会社の商標らしいです。(2003-04-02 掲載記事を復刻)



藤圭子の次は天地真理

今から思えばちょっと信じられないが、その当時大ざっぱに言えば「清純派」といえば 藤圭子 で、「お色気派」が辺見マリ。まあ調べて見れば他にもいっぱい歌手名を思いだしてくるのだとは思うが、あたし的に引っ掛った覚えのあるのはこのふたりしかなかった。なんという選択肢の少なさ! 

結果、二者択一で藤圭子組に属したとも言えるわけだが、老若男女日本国民全部が知っているスタアは、こういう状況で生まれていたのであって、これは百花繚乱の現在より良い時代だったといえないこともなかろう。浜崎あゆみがミリオン売っていても、あたしを含め顔と唄とが一致しないばかりか、存在すら全く知らない国民がヤマほどいるようだから、スタアにとってもやや空しさがあるのは否めない。ま、当時に比べりゃ小粒にすぎないと言うことですかな。



ややこしくなるので洋モノは割愛して、歌謡曲に絞って書くことにすると、藤圭子の次はといえば、「天地真理」の出現があった。この梶原一騎命名の埼玉産新型アイドルに、当時のガキ共は大いに震撼させられた。今も時々テレビに出演しておられるようで、その姿のみでご存知の方には全く理解不能だと思うが、とにかく凄まじいパワーの新種のオーラを振り撒いたんである。わかんね~だろ~な~。ね、そうでしたよね、ご同輩。

最近でいうなら貴騒動直前の宮沢りえがやや近いか。アイドルの本質的なものから言うと、宮沢のほうが断然高品質なのだが、しかしあの天地の怒濤のノリは何だったんだろうな?そのうねりに呑まれて、わたしも一瞬だがハマってしまったことを認めざるを得ない。だがいったいどこが良かったのか? ね、そうですよね、ご同輩。う~ん芸能界七不思議のひとつである。

その天地のワキを固めるように南沙織と小柳ルミ子、浅丘めぐみなんてのがでてきた。アグネスチャンや中三トリオ(山口・桜田・森)もでてきた。天地の独走に嫌気がさしていたあたしは(だってやはり希少な立場にいたいじゃないですか。マイナー嗜好というか、マニアックというか)、南に触手を伸ばしかけたものの、こちらはちょっとスマートすぎると感じ二の足を踏んだのである。

素直なところでは南で決まりなのだが、当時から偏屈の兆しの見えていたあたしは、もう少しマイナーなアイドル付きでいたかったのである。小柳は演歌系だし却下。浅丘の曲はノリがよかったが、オカメ顔で却下。アグネスは大きすぎるおっぱいがどうもダメだった。それに輸入ものならジュディ・オングという強烈に美しいおねーさまがいたのである。んで中三トリオは恥ずかしながらあたしと同い年である。ニキビ少年はお姉さまにあこがれるもの。こちらにはピクリとも来なかった。その挟撃を突いて出てきたのが、なんとまあ「浅田美代子」である。

不肖私、浅田美代子の生写真を撮りにゆき

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昭和48年10月7日/伏見桃山城 castle hall(折しも2003年1月末で閉園してしまった遊園地である。当時の隆盛はなかなかのものであったのだが...)写真のスペックを見ると、Minolta SRT101/ズームロッコール100~200mm f5.6 + 2倍のコムラーテレモア f3.5/ネオパンSSS(ASA800に増感)とある。しかし無茶ですな。開放値いったいいくらなんや? 当時のあたしの意気込みが垣間みえて恥ずかしいこと。

顔も野暮いし唄もとんでもないアイドルだったので、マニアック路線が満たされると信じ、また年齢もすこしお姉さんだったのですかさずこれに飛びついた。が、イカンセンいきなり大ブレイクしてしまったのである。既にファンであることを周囲に表明してしまった手前もはや撤回は許されない。次から次へとデビューしてくる魅力的なアイドルを横目に、しばらくの間、浅田付きで行く羽目となってしまったのである。(苦しい弁解だな)

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考えてみるに、その後ハマったアイドルといえば、五十嵐じゅん、風吹ジュン、大場久美子、相本久美子、森下愛子、高見知佳、伊藤蘭...(年代順不同)てなところか。なんだジュンジュンクミクミになってるし。まあ伊藤を除けば、マニアックにという信念は貫いてきたな、とは思う。

しかしこうして並べて見てみると吉田拓郎には浅田と森下をダブルで持っていかれてしまってるなあ。あたしと好みが似てるのか?吉田。(2003-02-05 掲載記事を復刻)

...さて、最近追加してます「昭和のこと」シリーズについてちょっと弁解を。古い読者のみなさんには既読感があると思いますけど、これらの文章、レンタルBBSを利用して2002〜2008年くらいに旧「ぼやコラ」にアップしてたものです。そのログをOCNサーバの倉庫に収納してたんですが、そちらもサービスが終了してしまい、ネットから消えたまましばらく放置してました。

ま、古いネタなんで消えちまっても別にいいんですが、当欄の更新も停滞してる折なもんで、めぼしい回だけ拾って倉庫カテゴリ「古ぼやコラ」に再録することにした次第です。コラムの最後にアップ当時の日付を入れておきます。古いコラムの蒸し返しで恐縮ですが、どうかお付き合いのほどを(管理人敬白)

昭和のアイドルたち

血液型がA型の人間は、昔のことによく拘る、と書かれているのを何処かで読んだ気がするが、あたしもA型だ。当サイトでもレトロものコンテンツが大きなスペースを占めているし、残存するブツの保有量も多い。B型の友人に直接指摘されたこともあるが、そういえば彼らは過ぎ去ったことにあまり執着しないなあ。もっとも彼らは単に無頓着なだけで、拘らないのは何も過去の事柄に限ったことではないとも思えるのだが。



男性歌手は「低音の魅力」だった

A型の人間がおおむね懐古趣味を持ち、とくに自分の過去の記録への執着が強いという指摘にはあたしも頷ける。なんでか。それは自分のひとつひとつの行いを入念に計画し、気を配りながら慎重に実行してきたことによると思われる。ようするにA型の過去のエピソードには手が掛かっているのである。気も掛かっているのである。B型がなんとなく愉しんで通過してしまうような事柄にでも、A型は元手を費やしているからである、と思うのだがどうか。

NHKラジオの年寄向け深夜放送を毎晩聞いているのだが、午前3時台のコーナーは「日本歌謡年代史」と決まっていて、たとえばある夜は「昭和7年の歌謡曲から」といった具合に、昔ヒットした楽曲がオンエアされる。毎晩聞いていると数日に一度は、あたしの琴線に触れる時代の唄がローテーションしてくるのである。そんな番組を聞きながら、A型のあたしが思いを巡らせたことを、いくつか、数回に分けて。




ガキ当時、オフクロ(ま、関西では、おかあちゃん、なのだが)連が、もてはやしていた男性ムード歌謡、いわゆる「フランク永井」「バーブ佐竹」「石原裕次郎」等、『低音の魅力』てなキャッチフレーズの着いていたたぐいの歌い手は、凄い歌唱力だと信じ込まされていたが、今聞いてみると、みんな下手くそなことを発見した。贔屓目ならぬ贔屓耳で聞いてやろうとするのだが、どうも歌にアラが目立つ。そこらのカラオケのおっさんにも、もっと上手い人がいるぞ。

思うに、まあ聞き手全体のレベルが低かったし、録音後の修正などが困難だったこともあろうが、あの頃の芸能人って遊び方がハンパじゃなかったんだろうし、レコーディング時の体調管理もエーカゲンだったのだろうと思う。まあ、世間をナメて掛かっていたというか、全力でもその程度だったというか。米国の大御所歌手に比べると質的なものは雲泥の差である。文化というものはこういうものだ。当時の製品と同様、メイド・イン・ジャパンなのであった。

17歳にして女の情念を歌いきった藤圭子

ところが、女性歌手は違う。米国とは比較しにくいのだが、低年齢でありながら、男性歌手に比べても堂々たるものである。いまさら「美空ひばり」は持ち出さないけれど、日本の大衆文化においては、女性の能力は男のそれを凌駕しているものが多い。歌唱力に関しては現在に至っても、まったくそのままで、本来「紅白」なんて、ずっと「紅」組の連勝であるべきである。




あたしが初めて目覚めたアイドル、つまり、ラジオの歌に耳を澄ませ、テレビ出演を欠かさず観て、部屋にポスターなどを貼った最初の女性アイドルは、「藤圭子」であった。何たってあなた、今やヒッキーのかあちゃんなのであるが、前出のラジオで昔のヒット曲を改めて聞いてみると、その凄まじい歌唱力に驚く。

歌唱力、と言うのは正しくないかもしれない。おんなの生き様、情念、酒に溺れ、男に騙され、捨てられる女、貧しく不幸な身の上、こんなものをね、17歳で唄いあげきっているんですよ! つーか表現しているんですな。17歳!(当時)で。「女のブルース」、じっくり聞いてごらんなさいませ。背筋ゾクゾクします。

また、亡くなられた青江三奈さんの「恍惚のブルース」。これ彼女が22歳のときの曲らしいですが、この全て悟りきったような表現力はどうしたものでしょう? で、今のモー娘。とかって一体いくつくらいなんだ?

ま、モー娘。は置いといて、藤圭子を初めとする当時の女性アイドルの弩級の歌唱表現力に比べて、男性歌手のエエ加減さが際立って見える。遊び過ぎ、天狗になり過ぎ、世の中ナメ過ぎだったんでしょうな。もっともこの傾向、現在の日本男児にはもっと顕著に現われておりまして、このことについてはまた別の機会にぼやくことに。(2003-01-25 掲載記事を復刻)

コンクリート舗装の味わい

さて、ひさびさの「昭和のこと」のむしかえし。ずいぶんさぼったものだ。GWに実家に墓参に帰り、古いアルバムの写真を複写(↓)してきたのだけれど、今回はそのなかの一枚をクローズアップして眺めながら、うだうだと書いてみることにする。

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写真中央の賢しこそうな坊は、なにを隠そう、あたしである。わはは。たぶん昭和37~8年頃に撮影されたものではないか。写っている道は、実家の前の往来だ。京都市の南部、伏見城城下の商人・職人町の中心あたりに位置する、南北に走る一筋の道である。写真には写っていないが、画面左手に通りから少し下がって切妻京町屋風安普請のわが家の建物があり、これは総領息子であるあたしが頼りないがゆえ、手を入れることもできず現在もほぼ当時のままだ。では写真を眺めながら重箱の隅をつついてみることにしよう。

まず、中央の「賢しこそうな坊」を見てみよう。不機嫌そうな表情だが、これは順光の陽射しが眩しいゆえに違いない。光線の具合から察するに、午前中に撮影されたものだ。着ているものを見ると、秋だろうか。このセーターとベスト、どうやら手製である。当時の各家庭には大概、足踏みミシンと編み機が常備されていて、また毛糸を巻き取る車のような折り畳み式の用具もあった。往来を歩いていると二階の窓から若奥さんの奏でるジャ、ジャ、という編み機をスライドさせる音がよく聞こえてきたものだ。ま、高度経済成長から取り残されていた所帯だけに、お手製もやむなきところであろう。

賢しこそうな坊(何度もくどいか)が打ち跨っているのは、本田宗一郎渾身の名機「スーパーカブ」である。排気量はわからないけれど、隣のオジサンの愛機を借用したものであろう。左側のわが家の軒下奥には、藁土が積み上げられている。どうやら屋根瓦の補修中であったようだ。カブ前輪の手前にも、木製のモッコとトタンの波板のようなものが写っている。後方にはバケツが写っているが、すでにポリ製である。バケツもブリキ製が全盛だったような気がするが、ポリバケツも普及していたようだ。



割烹着姿のご婦人とミゼット


家の修理など、にっちもさっちも行かない現在から思うに(ま、賢しこそうな坊が甲斐性無しに育ったせいなのだが)、貧しいといえども当時というのは、瓦屋根の補修や、畳替え、井戸の清掃、庭木の手入れなどが定期的に行われていた。職人などが立ち替わり頻繁に出入りしていて、賢しこそうな坊はその手際を興味深く見ていたものだ。裕福では無い家でもそういうことを定期的に行なえたのだから、職人たちもちゃんと生活できていたのだろう。いったいいつの間にそういうバランスが崩れてしまったのか。

さて、左隣のタイル貼りの車庫の見えるお屋敷は、医家である。門を入ると広い前庭があり、そこが近所のガキどもの遊び場でもあった。なんでも、かつて林長十郎(長谷川一夫)が住っていた屋敷だそうだ。現在はマンションに建て替えられてしまった。その奥は写真機店である。「富士フイルム」の看板が見える。写真では見えないけれど、もう一軒奥はなんと映画館であった。東宝特撮映画と若大将の二本立てはほとんど、町内のココで観た。

往来を行く後ろ姿の人々を見ると、割烹着姿である。近所への買い物などへは、これが普通の出で立ちだ。右手の洋装のご婦人お二人は、これから電車に乗って四条あたりのデパートへお買い物なのかもしれない。通り右側に目を移してみる。ホーロー看板の店舗は燃料店である。炭、灯油、練炭、炭団などを配達していた。まだ「通」帖を置いてゆく掛け売りだった。店舗では、塩・酢・化学調味料などの食料品や雑貨も扱っており、ビン形の看板が写っているが、「プラッシー」か「三ツ矢サイダー」あたりのものだろうか。配達用の軽三輪「ミゼット」が二台並んで停まっている。

道路の舗装を見ると、ヒビ割れが目立つが、これはコンクリート舗装だからである。アスファルトになるのは、ずいぶん後だったと思う。物心がついたときは、まだ土の道だったように記憶しているのだが、思い違いか。写真を見ると、舗装後2,3年しか経過していないようには見えないしなあ。この舗装に、ロバのパン屋が馬糞を落としていったもんだ。電柱はまだ木製である。細い道だというのに、ずいぶん中央に張りだして埋め込まれている。電柱下部には、スライド引きだし式の足掛け用金具が埋め込まれており、木が腐って割れてきたりするとよく引っこ抜いて失敬し悦に入ったもんだ。

それにしても、この「賢しこそうな坊」はいったいどこに消えてしまったのか。日本はその後も延々の愚政に甘んじ、貴重な才能を失い続けていることに気づかないといけない(笑)。(2007-05-26 掲載記事を復刻)

紙と木とブリキの世界

これまで、昔は良かったとばかり懐かしむのではなく、酷かったことも思いだして、現在のくらしのありがたみを再認識しようという主旨で書いてきたのだけれど、こと、「素材」のことに関して言えば、そういうわけにも行かないようである。近年、「石油化学製品」による恩恵に、「地球環境問題」が大きく絡んできたからだ。プラスティック、塩化ビニール、発泡スチロールなどを始めとする、いわゆる「プラ製品」が、生活の中に溢れだしてきて、道具はおしなべて安価になり便利になったのだけれど、その気軽さゆえ、後のこともよく考えずに喜んで「使い捨て」してしまった庶民を責めるのもちょいと酷な感じもする。今回は、そのようなプラ製品を中心に記憶を辿ってみようと思う。例によって裏付け調査もしないで、だらだら書くので、記憶違いや勘違いについてはご容赦を。


昭和40年代に入ってしまうと、もはやプラ製品は珍しいものではなくなっていたと思われるので、それ以前の話になるが、ほんのガキだったわたしの周りにあったプラ製品の代表的なものといえば、やはり玩具ということになろうか。しかし、当時はまだまだプラスティックのおもちゃは少なく、だいたいが鉄製およびブリキ製であった。

鉄道玩具でいえば、わたしが最初に買い与えられたのも三線式Oゲージと呼ばれる、鉄製レールにブリキの機関車であり、現存する「プラレール」を手にしたのは、もっと後のことである。「野球盤」というオモチャはすでにあったが、そのほとんどが板と厚紙製で、外野のフェンスなど「折詰弁当」のように薄板を曲げ繋いで作られていた。フィールド面は厚紙製だったので、踏んずけて凹ませてしまうと、そこで鉄球が止ってしまったりした。差し込んで立てる打者走者などの人形はプラ製(ビニール製?)だったような気がするが...。怪獣のソフビ人形なんてのが昨今懐かしがられているようだが、あれももうすこし後だ。さらに後、「人生ゲーム」が発売されたときなんぞ、「おお、ボードゲームに山がついとる!」と驚いたもんだ(笑)。まあ、プラモデルは当時から、ちゃんと「プラ」製であったが。



もうひとつよく見られた素材が「セルロイド」で、人形や下敷などにさかんに使われていたが、今探すとなると、「ピンポン球」くらいしか思いつかない。これも、もはやセルロイド製ではないのかもしれない。このセルロイドをナイフでみじん切りして、鉛筆のキャップ(金属製ですぞ)に詰め、先端を熱すると、一気に燃焼してロケットになった。一度教室で爆発させて叱られたことがある。余談になるけれど、ちょっと意外だが、当時のネジはほとんどがマイナスの頭であり、プラスのドライバーは日常生活で使用しないプロ用の道具だったように思う。

当時のプラスティックの材質や加工技術が、まだまだだったこともあり、家庭ではおおむね蔑視されていた素材だったと思う。なにしろすぐに割れ、捩れた。鍋釜のように鋳掛け屋に接いでもらうわけにもいかないし、それほど勿体のあるモノでもなかったから、捨てるしかなかった。後に「アロンアルファ」という瞬間接着剤が登場したとき、その量に対する価格の高さにもかかわらず有難みをもって受け入れたのは、プラスティック製日用品が自分で直せるというのが、ちょっとした驚きだったからだろう。

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背景を見回してみても、おおむね紙と木とブリキ。石油製品ナシ

保存容器の定番は海苔のガラス角瓶だ。


電気製品などのパーツとして、プラスティックは重宝されたが、まだまだ「ペラペラ」「まがいもの」の蔑視から抜け出せるほどのステータスはなかった。テレビなども、木製、家具調のほうが主流で、筐体の化粧板はおおむね木製だった。背面をふさぐ板も、確か厚紙製かコルクボードなどが使われていたと思う。今思うに、当時のプラの意匠が、そのフレキシブルさを活かした独自のデザインを追求するのではなく、主流のモノのかたちをそのまま真似て成形するというスタンスであったのが、蔑視を増長したのではなかったか。そのうえ、細かなディテールまで再現する金型の技術も未熟であったので、安っぽい浮き彫りと見られてしまったのだろう。

今でこそ保存容器といえば、プラ、ビニールが主流で、百円ショップにはその手の「タッパ」モノが溢れかえっているが、では当時は何に入れていたのか。まあ、木製、陶製、ガラス製、紙製の容器がほとんどだった。歳暮などに百貨店から贈られてくる砂糖や化学調味料などは、大きなブリキの缶に入っているものもあった。中味がビニール袋に詰められたうえの包装缶だったかどうかはよく憶えていない。湿度を嫌いそうなものは、たいがい「海苔のガラス瓶」が利用されていたと思う。

米は、どでかい木製の米櫃で、蓋を開けると中に枡が放りこんであった。そこにときどき湧いてくるコクゾウムシを捕まえるのが好きだった。避雷針のような形の触角に愛嬌があって、よく摘みだしては眺めていたものだ。茶は茶筒。鰹節は削り箱の下段。味噌は陶製の壺。漬物は糠床から直接取りだす。酢、醤油、味醂は一升瓶。マヨネーズは瓶入り〈ブルジョアご用達)だったけれど、あれは割りと早いうちに今のようなチューブになったのではなかろうか。そういや、ヤクルトも瓶入りであったなあ。

歯磨き粉も缶入り。その後、練り歯磨きが金属製のチューブ入りになった。これが残り少なくなったとき、うまく使いきるには「巻き」のテクニックが必要だった。あげく、手を切ったりして。衣装ケースは柳行李や木製の箱。しっかりした紙製の箱もあった。今やこれらのものは大概、ビニールおよびプラスティック製に変わってしまった。しかし缶詰め食品が、いまだ「缶詰」なのは、何かプラじゃ駄目な理由があるのかな?コンビーフなんか、不器用なあたしはあいかわらず手を切っとるんだが。

どれだけプラ製品が氾濫し、捨てられてきたかは、海や川を思いだせば歴然だ。子供の頃、都市近郊の海や川に泳ぎに行っても、プラ、ビニール、発泡スチロールのゴミは全くと言って良いほど見ることがなかった。タバコのフィルターなんてものもなかった。でもキレイだったかといえば、そうでもなく、空き缶はちらちら散乱していたし、ドス黒い廃油が漂い、家庭排水の泡や残飯が悪臭を放っていた。なにせ「イケイケ」「やりっ放し」高度成長期であったから、水質自体は工場廃液や下水道の処理が進んだ今よりも酷かったと思われるが、とにかくプラ製品のゴミや漂着物だけは、格段に少なかったと思う。当時の折り詰めや紙包みのゴミたちは、すみやかに土に帰っていったのであろうか。(2004-11-22 掲載記事を復刻)

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ブリキ製品でお遊びになられている賢しこそうな坊w

鰻の寝床の京町家

そろそろ冬の気配が感じられてきた今日この頃なので、今回は火のことを思いだしてみる。書いていることと、あたしの年齢とにギャップを感じる方がおられるかもしれないので記しておくと、生家母屋の普請自体はまま並の上なのだが、それは過去に小バブルの時期でもあったのだろう、あたしの知っている「昭和」の時期には、世帯の現金収入が乏しかったようなので、いわゆる住宅設備なんてものの改善が一般のご家庭より多少遅れていたのかもしれない。それになによりガキの頃のことである。記憶違いや年代の齟齬なども大いにあろうが、本稿は依頼原稿ではないので、いちいち裏付け調査や事実確認などしない。いたって適当いい加減に書き綴ってゆくのである。また当時の生家の周囲環境などについては、その都度新たに説明することもしないので、不可解な点は前稿をたどってみていただきたい。

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さてその貧乏世帯の「似非京町屋風」家屋は、風呂のときに書いたように、家屋をタテに貫く土間があった。玄関のたたきの奥には井戸とカマド(おくどさん)のある一画があり、そのまた奥にはやや幅を細くして米櫃食器棚などを設置する廊下となり、ふたたび拡がって台所兼洗い場兼洗濯場(はしりもと)が続く。そして突き当たりが小庭に接して浴室&厠である。井戸とカマドのある区画は大黒柱があって、二階屋根までの吹き抜けになってい、小さな天窓があった。これを見ているおかげで、古典落語、「金の大黒」や「不動坊」なんかの情景はすぐに思い浮かべることができるのだ。大黒柱には「秋葉さん」のではなかったが、火除の札が貼ってあった。ただし、大店のそれと一緒にするのはとんでもない大間違いであろうが。

このカマドのスペースに接する部屋が、いわゆる卓袱台のある食堂なのだが、調理をするには奥の「はしりもと」で調製したあと、小走りに土間を移動し、カマドで煮炊きし、いちいちゲタを脱ぎ土間から一段あがって食膳を用意するという、極めて非合理な動線であったので、他所から嫁いできたヨメにとっては大変な苦痛であったろうと思う。でもまあ連日大量の段登り降り運動のおかげで、京都のヨメの足腰はかなり鍛錬されたのではなかろうか。おくどさんはコッペパン状に土盛りをした大袈裟なものであったが、その大きさにもかかわらず「二口」である。おのおのの焚き口に薪や石炭を焼(く)べて炊飯や煮炊きをした。サブにはかんてき(七輪)が活躍した。ま、今の電子レンジですな。たぶん煙突があったと思うが、換気扇がなかったのは確かだ。当時ライフラインがどう整備されたのかは調べていないが、昭和30年代の中盤あたりにひと通りの水道・都市ガスが通ったのかもしれない。あたしは幼児であったが、そのカマドの姿が退役後のみだったかどうか・・かろうじて使用されている光景も見たような気がしている。




長火鉢を抱いて余生を惰行した爺様

玄関を入ったあがり框の一室、玄関間では、いつも隠居した爺様が火鉢を前に新聞を拡げ、友人の来るのを待っていた。冬の居間や食堂には丸く大きな火鉢が置いてあったが、爺様のそれは、長火鉢である。まあ貧乏所帯であるから、骨董屋で黒光りしているような上物ではない。これも安物の似非長火鉢である。とはいっても長火鉢の機能は満たしているので、それで良かったのである。子供の目にも安物と解るような小さなものだったが、一応一丁前に銅壷も抽斗も付いてい、白い灰入れには炭が熾り、常に鉄瓶が掛かっていてコトコト音を立てていた。ガキのあたしはこの炭や灰を鉄の火箸で慣らすのが好きで、よくキセルを燻らす祖父の横に座っていたものだが、今思うに、あたしが焚火酒野宿を好きな下地は、あの長火鉢の灰いじりから来ているのだと合点した。なれば、なにも雑木林まで足を伸ばさずとも、長火鉢を購入すれば毎日、酒肴&火弄りを愉しめそうなものだけれど、サッシ付き鉄筋ボロマンション住まいではそうもいかない。当時の家屋は、木造土壁のうえカマド・天窓まである構造だからこそ安全だったのであって、今や一戸建の暮らし向きの御仁でも、煤煙による室内の汚れや一酸化炭素中毒の危険を考えると、この贅沢は無理筋なのではないか。

爺様が耄碌するとともに、炭を熾すことが難儀になり、また火の用心も危険だということで、オヤジが謀ったのであろうが、長火鉢が電熱のものに変わってしまい、長火鉢へのあたしの興味も引いてしまった。ニクロム線周囲の燠のない灰など慣らしても少しも面白くない。爺様が肝臓を患っていたこともあってか、銅壷が省略された廉価タイプだったので、味気も何もなくなったが、それでも時々は、近郊の農家が届けてくれた「かきもち」「するめ」「酒の滓」などを焙りながら、爺様とお茶を呑んだりした。この頃になると、居間の丸火鉢も、どんどん灯油ストーブや練炭火鉢に置き替わり、暖かいものの、臭いのがとても不快で堪らなかった。特に練炭火鉢は、子供心に趣の無い器具だなあと思って見ていたのを憶えている。

それらの火鉢は、法事用などの上物を含め、特大から小さなものまで十個以上はあったと思う。それだけの嵩のものを、使用しない夏場はどこに収納していたのかというと、縁の下であった。玄関間奥の床がはね上げられるようになっていて、その部分が漆喰の土間にしつらえてあり、そこにずらりと火鉢が並んでいた。この場所への収納では出し入れが面倒だと思うのだけれど、昔はちゃんと「大掃除」という行事があったので問題がなかった。歳時に、町内が一斉に行なうことで騒音や埃の苦情を無くす、といううまくした仕組みがあったので、ズボラをこくこともなく毎年キチンと出し入れができたようだ。この床のはね上げ設備だが、どうやら戦時中の、当局指導による防空壕の跡だったようである。戦後、穴を埋めてしまい物置にしたようだが、冷静に考えてみると、ここに避難しても家屋の真下の壕である。被弾して火災になった場合、逃げ場もなく蒸し焼きになるしかないアホらしい設備だと思うのだが、いったい当時はどう考えていたのか。案外、憲兵などへの言い逃れ用トマソン物件だったのかもしれない。(2004-11-04 掲載記事を復刻)

コンビニのように銭湯があった。

昔のことをうだうだ蒸し返しているよりは、未来への夢や希望を語ったほうが明るく楽しい。しかし、だからこそ偏屈ものは、暗く貧しく不便だった昔のことを蒸し返すのである。つうわけで、これからときどきは、「昭和のこと」を書いてゆくことにする。といっても、あたし自身が昭和33年の生まれであるから、物心がついて記憶が鮮明になるのは大体昭和40年以降。なんのことはない、後半三分の一のことしか知らないわけであるが、まあよかんべ。戦前・戦中・敗戦後のことはどこぞのネット爺様に、経済成長期のことは団塊の兄さまがたに任せて、至って能天気に過ごした昭和後期のことをだらだら書こうか。

え~、まずは風呂のこと。今となっては、すっかり忘れてしまっているが、あたしらがガキの頃は、内風呂もタイヘンだったのである。裕福な御家庭はさておき、貧乏なウチなんざにも、なんと風呂はあった。しかし昭和40年頃、貧しい家庭の悲惨な内風呂を好んだ子供がどれだけいただろうか。それというのも、ちまたには現在のコンビニのように銭湯が営業していたからである。わが実家の周囲半径300m圏内を思いだしてみても、6~7軒は数えることができる。銭湯では、友だちとも会うことができるし、岩風呂の壁を登って遊んだり、脱衣場でフルーツ牛乳などを喫すこともできた。何より、広々としてたっぷりの湯、明るい空間。番台のおかみさんの目を誤魔化して、自動浮沈装置付き「伊号潜水艦」のプラモデルを持ち込んだりしたものだ。もっともこいつは浴槽下部にあった湯吹出口の内部に特攻突入したあげく熱で変形してしまい、あたしは泣いた。あたしが泣くもんで、あわててこれを回収しょうとしたオヤジは手に火傷を負い、あたしは笑った。
 
さて生家は京都・伏見区の中心部にある。太閤秀吉が朝鮮攻め終盤にトチ狂って築城した、ゴージャス・パレス「伏見城」城下町の町人街区、つまり商業地にあるのだが、城塞都市計画つうものも熟した頃の市街なので、街割りは合理的な碁盤の目状に設計されている。要するに京の町屋と同じく、セコイ正方形の区画を間口の狭い所謂「鰻の寝床」と呼ばれる切妻屋根の家が取り巻き犇めいているのだが、生家もそのうちの貧相な一軒だ。細長い家を尚更細長くするこたあないと思うのだが、「走り庭」と呼ばれる土間が屋根下の長辺を貫いており、その奥、突き当たりにわが家の風呂があった。この長い土間、現在では、ほとんどの家が床をしつらえて、段差のないフロアに改造しているが。

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古新聞と木っ端で焚き付け、薪と石炭で湯を沸かす。

この風呂、その土間にコンクリートの基礎をかさ上げして壁で囲んだだけで、洗い場はその基礎を桟にして厚板を4枚差し渡しただけである。湯を使うと、汚水はその簀の子の下にジョロリと落ちて下水口まで土間を流れてゆく。浴槽といえば、まんま「桶」であった。木製の桶に真鍮のタガが3~4本巻かれていて、その三分の一円弧くらいの木製の中仕切りがあり、その下に釜があった。火傷をしないように、釜の前面にも板の仕切りが付いていて、その一部がドア状に片側支持されてい、開いたり閉じたりできる。湯に浸かりながらこれを動かすと湯温の調節ができるようになっていた。風呂を沸かそうと思えば、庭に降りて釜の背面に回り、古新聞と木っ端で焚き付けてから薪や石炭を入れる。あたしも何度か焚いたけれど、火勢を自在にコントロールするにはコツがあり、要領を得た後でも、冬期など風呂を沸かせるまでに一時間以上はかかった。まあ、このときの経験が、今の焚火野宿に活きているといえば、そうだが。石炭を焚くのだから、当然煙突があり、したがって煙突掃除人などもときおり回ってくる。掃除代をケチろうとしたオヤジは時々自分でやったが、 煙突の突きだした屋根上で軒下の蜂の巣を蹴飛ばしたあげく顔中刺されまくり、あたしは笑った。

浴槽に入れる水は流し場からバケツで往復して満たした。後に、突然爺様が「!」となったかと思うと、そそくさと浴室の壁に穴を開けホースを通してカランを作った。これには家族全員が大いなる感動をした。電球はマツダランプの何燭とかいうもので、まあ5Wくらいか。そのうえ電気に水は禁物で、窓越しの光なので、暗いの何の。板がこみの浴室内は、その湿気で、そこらじゅうが腐食されてボロボロ、ヌルヌルである。洗い場の簀の子板が腐ったのを、爺様が踏み割り、素っ裸でナメクジだらけの土間のコンクリに落下したこともある。板の壁はそこここに湿って朽ちた割れ目ができ、そこに棲み付いたトタテグモなどを観察しながら入浴したものだ。掌大のアシダカグモは出るわ、ヤスデ、ゲジゲジ、カマドウマ、ナメクジ、ウジ、戦後すぐには特大のアオダイショウも出たというトンデモナイ風呂であった。こちらが裸なだけに、このような小動物もかなりの脅威であったのだ。爺様が死んでから、昭和45年くらいにオヤジが奮起して、文化的なバスルームに改築したのだと思う。離れの空き家にもつい最近まで「ほくさんバスオール」があった。先日おかんにどうしたか訊いたら、雨漏りを直したついでに処分したという。惜しい。

当然なこととばかり膨大な時間と労力を費やして毎日セッセと風呂を沸かしていたわけであるが、まあ、それだけ時間がゆったり流れていたということだろう。古いものを懐かしんだり持て囃すのも、まま良いけれど、風呂などについては、蛇口を捻ればお湯が出る現在のほうがよほど便利で清潔で有難いのである。なのにそういう不便のさまを赤裸々に表した書物や文章はとんと少なく、ロマンの世界として煽ったものばかりなのが、気に入らんのである。若い婦女子の皆さんが、「エーッ、薪で沸かす昔の桶のお風呂、入ってみた~い!」なんて言いそうなので書いたのだが、正味の話、あんたら絶対よう入らんと思うよ。(2004-10-18 掲載記事を復刻)

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