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紙と木とブリキの世界
これまで、昔は良かったとばかり懐かしむのではなく、酷かったことも思いだして、現在のくらしのありがたみを再認識しようという主旨で書いてきたのだけれど、こと、「素材」のことに関して言えば、そういうわけにも行かないようである。近年、「石油化学製品」による恩恵に、「地球環境問題」が大きく絡んできたからだ。プラスティック、塩化ビニール、発泡スチロールなどを始めとする、いわゆる「プラ製品」が、生活の中に溢れだしてきて、道具はおしなべて安価になり便利になったのだけれど、その気軽さゆえ、後のこともよく考えずに喜んで「使い捨て」してしまった庶民を責めるのもちょいと酷な感じもする。今回は、そのようなプラ製品を中心に記憶を辿ってみようと思う。例によって裏付け調査もしないで、だらだら書くので、記憶違いや勘違いについてはご容赦を。
昭和40年代に入ってしまうと、もはやプラ製品は珍しいものではなくなっていたと思われるので、それ以前の話になるが、ほんのガキだったわたしの周りにあったプラ製品の代表的なものといえば、やはり玩具ということになろうか。しかし、当時はまだまだプラスティックのおもちゃは少なく、だいたいが鉄製およびブリキ製であった。
鉄道玩具でいえば、わたしが最初に買い与えられたのも三線式Oゲージと呼ばれる、鉄製レールにブリキの機関車であり、現存する「プラレール」を手にしたのは、もっと後のことである。「野球盤」というオモチャはすでにあったが、そのほとんどが板と厚紙製で、外野のフェンスなど「折詰弁当」のように薄板を曲げ繋いで作られていた。フィールド面は厚紙製だったので、踏んずけて凹ませてしまうと、そこで鉄球が止ってしまったりした。差し込んで立てる打者走者などの人形はプラ製(ビニール製?)だったような気がするが...。怪獣のソフビ人形なんてのが昨今懐かしがられているようだが、あれももうすこし後だ。さらに後、「人生ゲーム」が発売されたときなんぞ、「おお、ボードゲームに山がついとる!」と驚いたもんだ(笑)。まあ、プラモデルは当時から、ちゃんと「プラ」製であったが。
もうひとつよく見られた素材が「セルロイド」で、人形や下敷などにさかんに使われていたが、今探すとなると、「ピンポン球」くらいしか思いつかない。これも、もはやセルロイド製ではないのかもしれない。このセルロイドをナイフでみじん切りして、鉛筆のキャップ(金属製ですぞ)に詰め、先端を熱すると、一気に燃焼してロケットになった。一度教室で爆発させて叱られたことがある。余談になるけれど、ちょっと意外だが、当時のネジはほとんどがマイナスの頭であり、プラスのドライバーは日常生活で使用しないプロ用の道具だったように思う。
当時のプラスティックの材質や加工技術が、まだまだだったこともあり、家庭ではおおむね蔑視されていた素材だったと思う。なにしろすぐに割れ、捩れた。鍋釜のように鋳掛け屋に接いでもらうわけにもいかないし、それほど勿体のあるモノでもなかったから、捨てるしかなかった。後に「アロンアルファ」という瞬間接着剤が登場したとき、その量に対する価格の高さにもかかわらず有難みをもって受け入れたのは、プラスティック製日用品が自分で直せるというのが、ちょっとした驚きだったからだろう。
背景を見回してみても、おおむね紙と木とブリキ。石油製品ナシ
保存容器の定番は海苔のガラス角瓶だ。
電気製品などのパーツとして、プラスティックは重宝されたが、まだまだ「ペラペラ」「まがいもの」の蔑視から抜け出せるほどのステータスはなかった。テレビなども、木製、家具調のほうが主流で、筐体の化粧板はおおむね木製だった。背面をふさぐ板も、確か厚紙製かコルクボードなどが使われていたと思う。今思うに、当時のプラの意匠が、そのフレキシブルさを活かした独自のデザインを追求するのではなく、主流のモノのかたちをそのまま真似て成形するというスタンスであったのが、蔑視を増長したのではなかったか。そのうえ、細かなディテールまで再現する金型の技術も未熟であったので、安っぽい浮き彫りと見られてしまったのだろう。
今でこそ保存容器といえば、プラ、ビニールが主流で、百円ショップにはその手の「タッパ」モノが溢れかえっているが、では当時は何に入れていたのか。まあ、木製、陶製、ガラス製、紙製の容器がほとんどだった。歳暮などに百貨店から贈られてくる砂糖や化学調味料などは、大きなブリキの缶に入っているものもあった。中味がビニール袋に詰められたうえの包装缶だったかどうかはよく憶えていない。湿度を嫌いそうなものは、たいがい「海苔のガラス瓶」が利用されていたと思う。
米は、どでかい木製の米櫃で、蓋を開けると中に枡が放りこんであった。そこにときどき湧いてくるコクゾウムシを捕まえるのが好きだった。避雷針のような形の触角に愛嬌があって、よく摘みだしては眺めていたものだ。茶は茶筒。鰹節は削り箱の下段。味噌は陶製の壺。漬物は糠床から直接取りだす。酢、醤油、味醂は一升瓶。マヨネーズは瓶入り〈ブルジョアご用達)だったけれど、あれは割りと早いうちに今のようなチューブになったのではなかろうか。そういや、ヤクルトも瓶入りであったなあ。
歯磨き粉も缶入り。その後、練り歯磨きが金属製のチューブ入りになった。これが残り少なくなったとき、うまく使いきるには「巻き」のテクニックが必要だった。あげく、手を切ったりして。衣装ケースは柳行李や木製の箱。しっかりした紙製の箱もあった。今やこれらのものは大概、ビニールおよびプラスティック製に変わってしまった。しかし缶詰め食品が、いまだ「缶詰」なのは、何かプラじゃ駄目な理由があるのかな?コンビーフなんか、不器用なあたしはあいかわらず手を切っとるんだが。
どれだけプラ製品が氾濫し、捨てられてきたかは、海や川を思いだせば歴然だ。子供の頃、都市近郊の海や川に泳ぎに行っても、プラ、ビニール、発泡スチロールのゴミは全くと言って良いほど見ることがなかった。タバコのフィルターなんてものもなかった。でもキレイだったかといえば、そうでもなく、空き缶はちらちら散乱していたし、ドス黒い廃油が漂い、家庭排水の泡や残飯が悪臭を放っていた。なにせ「イケイケ」「やりっ放し」高度成長期であったから、水質自体は工場廃液や下水道の処理が進んだ今よりも酷かったと思われるが、とにかくプラ製品のゴミや漂着物だけは、格段に少なかったと思う。当時の折り詰めや紙包みのゴミたちは、すみやかに土に帰っていったのであろうか。(2004-11-22 掲載記事を復刻)
ブリキ製品でお遊びになられている賢しこそうな坊w
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紙と木とブリキの世界
これまで、昔は良かったとばかり懐かしむのではなく、酷かったことも思いだして、現在のくらしのありがたみを再認識しようという主旨で書いてきたのだけれど、こと、「素材」のことに関して言えば、そういうわけにも行かないようである。近年、「石油化学製品」による恩恵に、「地球環境問題」が大きく絡んできたからだ。プラスティック、塩化ビニール、発泡スチロールなどを始めとする、いわゆる「プラ製品」が、生活の中に溢れだしてきて、道具はおしなべて安価になり便利になったのだけれど、その気軽さゆえ、後のこともよく考えずに喜んで「使い捨て」してしまった庶民を責めるのもちょいと酷な感じもする。今回は、そのようなプラ製品を中心に記憶を辿ってみようと思う。例によって裏付け調査もしないで、だらだら書くので、記憶違いや勘違いについてはご容赦を。
昭和40年代に入ってしまうと、もはやプラ製品は珍しいものではなくなっていたと思われるので、それ以前の話になるが、ほんのガキだったわたしの周りにあったプラ製品の代表的なものといえば、やはり玩具ということになろうか。しかし、当時はまだまだプラスティックのおもちゃは少なく、だいたいが鉄製およびブリキ製であった。
鉄道玩具でいえば、わたしが最初に買い与えられたのも三線式Oゲージと呼ばれる、鉄製レールにブリキの機関車であり、現存する「プラレール」を手にしたのは、もっと後のことである。「野球盤」というオモチャはすでにあったが、そのほとんどが板と厚紙製で、外野のフェンスなど「折詰弁当」のように薄板を曲げ繋いで作られていた。フィールド面は厚紙製だったので、踏んずけて凹ませてしまうと、そこで鉄球が止ってしまったりした。差し込んで立てる打者走者などの人形はプラ製(ビニール製?)だったような気がするが...。怪獣のソフビ人形なんてのが昨今懐かしがられているようだが、あれももうすこし後だ。さらに後、「人生ゲーム」が発売されたときなんぞ、「おお、ボードゲームに山がついとる!」と驚いたもんだ(笑)。まあ、プラモデルは当時から、ちゃんと「プラ」製であったが。
もうひとつよく見られた素材が「セルロイド」で、人形や下敷などにさかんに使われていたが、今探すとなると、「ピンポン球」くらいしか思いつかない。これも、もはやセルロイド製ではないのかもしれない。このセルロイドをナイフでみじん切りして、鉛筆のキャップ(金属製ですぞ)に詰め、先端を熱すると、一気に燃焼してロケットになった。一度教室で爆発させて叱られたことがある。余談になるけれど、ちょっと意外だが、当時のネジはほとんどがマイナスの頭であり、プラスのドライバーは日常生活で使用しないプロ用の道具だったように思う。
当時のプラスティックの材質や加工技術が、まだまだだったこともあり、家庭ではおおむね蔑視されていた素材だったと思う。なにしろすぐに割れ、捩れた。鍋釜のように鋳掛け屋に接いでもらうわけにもいかないし、それほど勿体のあるモノでもなかったから、捨てるしかなかった。後に「アロンアルファ」という瞬間接着剤が登場したとき、その量に対する価格の高さにもかかわらず有難みをもって受け入れたのは、プラスティック製日用品が自分で直せるというのが、ちょっとした驚きだったからだろう。
背景を見回してみても、おおむね紙と木とブリキ。石油製品ナシ
保存容器の定番は海苔のガラス角瓶だ。
電気製品などのパーツとして、プラスティックは重宝されたが、まだまだ「ペラペラ」「まがいもの」の蔑視から抜け出せるほどのステータスはなかった。テレビなども、木製、家具調のほうが主流で、筐体の化粧板はおおむね木製だった。背面をふさぐ板も、確か厚紙製かコルクボードなどが使われていたと思う。今思うに、当時のプラの意匠が、そのフレキシブルさを活かした独自のデザインを追求するのではなく、主流のモノのかたちをそのまま真似て成形するというスタンスであったのが、蔑視を増長したのではなかったか。そのうえ、細かなディテールまで再現する金型の技術も未熟であったので、安っぽい浮き彫りと見られてしまったのだろう。
今でこそ保存容器といえば、プラ、ビニールが主流で、百円ショップにはその手の「タッパ」モノが溢れかえっているが、では当時は何に入れていたのか。まあ、木製、陶製、ガラス製、紙製の容器がほとんどだった。歳暮などに百貨店から贈られてくる砂糖や化学調味料などは、大きなブリキの缶に入っているものもあった。中味がビニール袋に詰められたうえの包装缶だったかどうかはよく憶えていない。湿度を嫌いそうなものは、たいがい「海苔のガラス瓶」が利用されていたと思う。
米は、どでかい木製の米櫃で、蓋を開けると中に枡が放りこんであった。そこにときどき湧いてくるコクゾウムシを捕まえるのが好きだった。避雷針のような形の触角に愛嬌があって、よく摘みだしては眺めていたものだ。茶は茶筒。鰹節は削り箱の下段。味噌は陶製の壺。漬物は糠床から直接取りだす。酢、醤油、味醂は一升瓶。マヨネーズは瓶入り〈ブルジョアご用達)だったけれど、あれは割りと早いうちに今のようなチューブになったのではなかろうか。そういや、ヤクルトも瓶入りであったなあ。
歯磨き粉も缶入り。その後、練り歯磨きが金属製のチューブ入りになった。これが残り少なくなったとき、うまく使いきるには「巻き」のテクニックが必要だった。あげく、手を切ったりして。衣装ケースは柳行李や木製の箱。しっかりした紙製の箱もあった。今やこれらのものは大概、ビニールおよびプラスティック製に変わってしまった。しかし缶詰め食品が、いまだ「缶詰」なのは、何かプラじゃ駄目な理由があるのかな?コンビーフなんか、不器用なあたしはあいかわらず手を切っとるんだが。
どれだけプラ製品が氾濫し、捨てられてきたかは、海や川を思いだせば歴然だ。子供の頃、都市近郊の海や川に泳ぎに行っても、プラ、ビニール、発泡スチロールのゴミは全くと言って良いほど見ることがなかった。タバコのフィルターなんてものもなかった。でもキレイだったかといえば、そうでもなく、空き缶はちらちら散乱していたし、ドス黒い廃油が漂い、家庭排水の泡や残飯が悪臭を放っていた。なにせ「イケイケ」「やりっ放し」高度成長期であったから、水質自体は工場廃液や下水道の処理が進んだ今よりも酷かったと思われるが、とにかくプラ製品のゴミや漂着物だけは、格段に少なかったと思う。当時の折り詰めや紙包みのゴミたちは、すみやかに土に帰っていったのであろうか。(2004-11-22 掲載記事を復刻)
ブリキ製品でお遊びになられている賢しこそうな坊w