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コンクリート舗装の味わい
さて、ひさびさの「昭和のこと」のむしかえし。ずいぶんさぼったものだ。GWに実家に墓参に帰り、古いアルバムの写真を複写(↓)してきたのだけれど、今回はそのなかの一枚をクローズアップして眺めながら、うだうだと書いてみることにする。
写真中央の賢しこそうな坊は、なにを隠そう、あたしである。わはは。たぶん昭和37~8年頃に撮影されたものではないか。写っている道は、実家の前の往来だ。京都市の南部、伏見城城下の商人・職人町の中心あたりに位置する、南北に走る一筋の道である。写真には写っていないが、画面左手に通りから少し下がって切妻京町屋風安普請のわが家の建物があり、これは総領息子であるあたしが頼りないがゆえ、手を入れることもできず現在もほぼ当時のままだ。では写真を眺めながら重箱の隅をつついてみることにしよう。
まず、中央の「賢しこそうな坊」を見てみよう。不機嫌そうな表情だが、これは順光の陽射しが眩しいゆえに違いない。光線の具合から察するに、午前中に撮影されたものだ。着ているものを見ると、秋だろうか。このセーターとベスト、どうやら手製である。当時の各家庭には大概、足踏みミシンと編み機が常備されていて、また毛糸を巻き取る車のような折り畳み式の用具もあった。往来を歩いていると二階の窓から若奥さんの奏でるジャ、ジャ、という編み機をスライドさせる音がよく聞こえてきたものだ。ま、高度経済成長から取り残されていた所帯だけに、お手製もやむなきところであろう。
賢しこそうな坊(何度もくどいか)が打ち跨っているのは、本田宗一郎渾身の名機「スーパーカブ」である。排気量はわからないけれど、隣のオジサンの愛機を借用したものであろう。左側のわが家の軒下奥には、藁土が積み上げられている。どうやら屋根瓦の補修中であったようだ。カブ前輪の手前にも、木製のモッコとトタンの波板のようなものが写っている。後方にはバケツが写っているが、すでにポリ製である。バケツもブリキ製が全盛だったような気がするが、ポリバケツも普及していたようだ。
割烹着姿のご婦人とミゼット
家の修理など、にっちもさっちも行かない現在から思うに(ま、賢しこそうな坊が甲斐性無しに育ったせいなのだが)、貧しいといえども当時というのは、瓦屋根の補修や、畳替え、井戸の清掃、庭木の手入れなどが定期的に行われていた。職人などが立ち替わり頻繁に出入りしていて、賢しこそうな坊はその手際を興味深く見ていたものだ。裕福では無い家でもそういうことを定期的に行なえたのだから、職人たちもちゃんと生活できていたのだろう。いったいいつの間にそういうバランスが崩れてしまったのか。
さて、左隣のタイル貼りの車庫の見えるお屋敷は、医家である。門を入ると広い前庭があり、そこが近所のガキどもの遊び場でもあった。なんでも、かつて林長十郎(長谷川一夫)が住っていた屋敷だそうだ。現在はマンションに建て替えられてしまった。その奥は写真機店である。「富士フイルム」の看板が見える。写真では見えないけれど、もう一軒奥はなんと映画館であった。東宝特撮映画と若大将の二本立てはほとんど、町内のココで観た。
往来を行く後ろ姿の人々を見ると、割烹着姿である。近所への買い物などへは、これが普通の出で立ちだ。右手の洋装のご婦人お二人は、これから電車に乗って四条あたりのデパートへお買い物なのかもしれない。通り右側に目を移してみる。ホーロー看板の店舗は燃料店である。炭、灯油、練炭、炭団などを配達していた。まだ「通」帖を置いてゆく掛け売りだった。店舗では、塩・酢・化学調味料などの食料品や雑貨も扱っており、ビン形の看板が写っているが、「プラッシー」か「三ツ矢サイダー」あたりのものだろうか。配達用の軽三輪「ミゼット」が二台並んで停まっている。
道路の舗装を見ると、ヒビ割れが目立つが、これはコンクリート舗装だからである。アスファルトになるのは、ずいぶん後だったと思う。物心がついたときは、まだ土の道だったように記憶しているのだが、思い違いか。写真を見ると、舗装後2,3年しか経過していないようには見えないしなあ。この舗装に、ロバのパン屋が馬糞を落としていったもんだ。電柱はまだ木製である。細い道だというのに、ずいぶん中央に張りだして埋め込まれている。電柱下部には、スライド引きだし式の足掛け用金具が埋め込まれており、木が腐って割れてきたりするとよく引っこ抜いて失敬し悦に入ったもんだ。
それにしても、この「賢しこそうな坊」はいったいどこに消えてしまったのか。日本はその後も延々の愚政に甘んじ、貴重な才能を失い続けていることに気づかないといけない(笑)。(2007-05-26 掲載記事を復刻)
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コンクリート舗装の味わい
さて、ひさびさの「昭和のこと」のむしかえし。ずいぶんさぼったものだ。GWに実家に墓参に帰り、古いアルバムの写真を複写(↓)してきたのだけれど、今回はそのなかの一枚をクローズアップして眺めながら、うだうだと書いてみることにする。
写真中央の賢しこそうな坊は、なにを隠そう、あたしである。わはは。たぶん昭和37~8年頃に撮影されたものではないか。写っている道は、実家の前の往来だ。京都市の南部、伏見城城下の商人・職人町の中心あたりに位置する、南北に走る一筋の道である。写真には写っていないが、画面左手に通りから少し下がって切妻京町屋風安普請のわが家の建物があり、これは総領息子であるあたしが頼りないがゆえ、手を入れることもできず現在もほぼ当時のままだ。では写真を眺めながら重箱の隅をつついてみることにしよう。
まず、中央の「賢しこそうな坊」を見てみよう。不機嫌そうな表情だが、これは順光の陽射しが眩しいゆえに違いない。光線の具合から察するに、午前中に撮影されたものだ。着ているものを見ると、秋だろうか。このセーターとベスト、どうやら手製である。当時の各家庭には大概、足踏みミシンと編み機が常備されていて、また毛糸を巻き取る車のような折り畳み式の用具もあった。往来を歩いていると二階の窓から若奥さんの奏でるジャ、ジャ、という編み機をスライドさせる音がよく聞こえてきたものだ。ま、高度経済成長から取り残されていた所帯だけに、お手製もやむなきところであろう。
賢しこそうな坊(何度もくどいか)が打ち跨っているのは、本田宗一郎渾身の名機「スーパーカブ」である。排気量はわからないけれど、隣のオジサンの愛機を借用したものであろう。左側のわが家の軒下奥には、藁土が積み上げられている。どうやら屋根瓦の補修中であったようだ。カブ前輪の手前にも、木製のモッコとトタンの波板のようなものが写っている。後方にはバケツが写っているが、すでにポリ製である。バケツもブリキ製が全盛だったような気がするが、ポリバケツも普及していたようだ。
割烹着姿のご婦人とミゼット
家の修理など、にっちもさっちも行かない現在から思うに(ま、賢しこそうな坊が甲斐性無しに育ったせいなのだが)、貧しいといえども当時というのは、瓦屋根の補修や、畳替え、井戸の清掃、庭木の手入れなどが定期的に行われていた。職人などが立ち替わり頻繁に出入りしていて、賢しこそうな坊はその手際を興味深く見ていたものだ。裕福では無い家でもそういうことを定期的に行なえたのだから、職人たちもちゃんと生活できていたのだろう。いったいいつの間にそういうバランスが崩れてしまったのか。
さて、左隣のタイル貼りの車庫の見えるお屋敷は、医家である。門を入ると広い前庭があり、そこが近所のガキどもの遊び場でもあった。なんでも、かつて林長十郎(長谷川一夫)が住っていた屋敷だそうだ。現在はマンションに建て替えられてしまった。その奥は写真機店である。「富士フイルム」の看板が見える。写真では見えないけれど、もう一軒奥はなんと映画館であった。東宝特撮映画と若大将の二本立てはほとんど、町内のココで観た。
往来を行く後ろ姿の人々を見ると、割烹着姿である。近所への買い物などへは、これが普通の出で立ちだ。右手の洋装のご婦人お二人は、これから電車に乗って四条あたりのデパートへお買い物なのかもしれない。通り右側に目を移してみる。ホーロー看板の店舗は燃料店である。炭、灯油、練炭、炭団などを配達していた。まだ「通」帖を置いてゆく掛け売りだった。店舗では、塩・酢・化学調味料などの食料品や雑貨も扱っており、ビン形の看板が写っているが、「プラッシー」か「三ツ矢サイダー」あたりのものだろうか。配達用の軽三輪「ミゼット」が二台並んで停まっている。
道路の舗装を見ると、ヒビ割れが目立つが、これはコンクリート舗装だからである。アスファルトになるのは、ずいぶん後だったと思う。物心がついたときは、まだ土の道だったように記憶しているのだが、思い違いか。写真を見ると、舗装後2,3年しか経過していないようには見えないしなあ。この舗装に、ロバのパン屋が馬糞を落としていったもんだ。電柱はまだ木製である。細い道だというのに、ずいぶん中央に張りだして埋め込まれている。電柱下部には、スライド引きだし式の足掛け用金具が埋め込まれており、木が腐って割れてきたりするとよく引っこ抜いて失敬し悦に入ったもんだ。
それにしても、この「賢しこそうな坊」はいったいどこに消えてしまったのか。日本はその後も延々の愚政に甘んじ、貴重な才能を失い続けていることに気づかないといけない(笑)。(2007-05-26 掲載記事を復刻)