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コンビニのように銭湯があった。
昔のことをうだうだ蒸し返しているよりは、未来への夢や希望を語ったほうが明るく楽しい。しかし、だからこそ偏屈ものは、暗く貧しく不便だった昔のことを蒸し返すのである。つうわけで、これからときどきは、「昭和のこと」を書いてゆくことにする。といっても、あたし自身が昭和33年の生まれであるから、物心がついて記憶が鮮明になるのは大体昭和40年以降。なんのことはない、後半三分の一のことしか知らないわけであるが、まあよかんべ。戦前・戦中・敗戦後のことはどこぞのネット爺様に、経済成長期のことは団塊の兄さまがたに任せて、至って能天気に過ごした昭和後期のことをだらだら書こうか。
え~、まずは風呂のこと。今となっては、すっかり忘れてしまっているが、あたしらがガキの頃は、内風呂もタイヘンだったのである。裕福な御家庭はさておき、貧乏なウチなんざにも、なんと風呂はあった。しかし昭和40年頃、貧しい家庭の悲惨な内風呂を好んだ子供がどれだけいただろうか。それというのも、ちまたには現在のコンビニのように銭湯が営業していたからである。わが実家の周囲半径300m圏内を思いだしてみても、6~7軒は数えることができる。銭湯では、友だちとも会うことができるし、岩風呂の壁を登って遊んだり、脱衣場でフルーツ牛乳などを喫すこともできた。何より、広々としてたっぷりの湯、明るい空間。番台のおかみさんの目を誤魔化して、自動浮沈装置付き「伊号潜水艦」のプラモデルを持ち込んだりしたものだ。もっともこいつは浴槽下部にあった湯吹出口の内部に特攻突入したあげく熱で変形してしまい、あたしは泣いた。あたしが泣くもんで、あわててこれを回収しょうとしたオヤジは手に火傷を負い、あたしは笑った。
さて生家は京都・伏見区の中心部にある。太閤秀吉が朝鮮攻め終盤にトチ狂って築城した、ゴージャス・パレス「伏見城」城下町の町人街区、つまり商業地にあるのだが、城塞都市計画つうものも熟した頃の市街なので、街割りは合理的な碁盤の目状に設計されている。要するに京の町屋と同じく、セコイ正方形の区画を間口の狭い所謂「鰻の寝床」と呼ばれる切妻屋根の家が取り巻き犇めいているのだが、生家もそのうちの貧相な一軒だ。細長い家を尚更細長くするこたあないと思うのだが、「走り庭」と呼ばれる土間が屋根下の長辺を貫いており、その奥、突き当たりにわが家の風呂があった。この長い土間、現在では、ほとんどの家が床をしつらえて、段差のないフロアに改造しているが。
古新聞と木っ端で焚き付け、薪と石炭で湯を沸かす。
この風呂、その土間にコンクリートの基礎をかさ上げして壁で囲んだだけで、洗い場はその基礎を桟にして厚板を4枚差し渡しただけである。湯を使うと、汚水はその簀の子の下にジョロリと落ちて下水口まで土間を流れてゆく。浴槽といえば、まんま「桶」であった。木製の桶に真鍮のタガが3~4本巻かれていて、その三分の一円弧くらいの木製の中仕切りがあり、その下に釜があった。火傷をしないように、釜の前面にも板の仕切りが付いていて、その一部がドア状に片側支持されてい、開いたり閉じたりできる。湯に浸かりながらこれを動かすと湯温の調節ができるようになっていた。風呂を沸かそうと思えば、庭に降りて釜の背面に回り、古新聞と木っ端で焚き付けてから薪や石炭を入れる。あたしも何度か焚いたけれど、火勢を自在にコントロールするにはコツがあり、要領を得た後でも、冬期など風呂を沸かせるまでに一時間以上はかかった。まあ、このときの経験が、今の焚火野宿に活きているといえば、そうだが。石炭を焚くのだから、当然煙突があり、したがって煙突掃除人などもときおり回ってくる。掃除代をケチろうとしたオヤジは時々自分でやったが、 煙突の突きだした屋根上で軒下の蜂の巣を蹴飛ばしたあげく顔中刺されまくり、あたしは笑った。
浴槽に入れる水は流し場からバケツで往復して満たした。後に、突然爺様が「!」となったかと思うと、そそくさと浴室の壁に穴を開けホースを通してカランを作った。これには家族全員が大いなる感動をした。電球はマツダランプの何燭とかいうもので、まあ5Wくらいか。そのうえ電気に水は禁物で、窓越しの光なので、暗いの何の。板がこみの浴室内は、その湿気で、そこらじゅうが腐食されてボロボロ、ヌルヌルである。洗い場の簀の子板が腐ったのを、爺様が踏み割り、素っ裸でナメクジだらけの土間のコンクリに落下したこともある。板の壁はそこここに湿って朽ちた割れ目ができ、そこに棲み付いたトタテグモなどを観察しながら入浴したものだ。掌大のアシダカグモは出るわ、ヤスデ、ゲジゲジ、カマドウマ、ナメクジ、ウジ、戦後すぐには特大のアオダイショウも出たというトンデモナイ風呂であった。こちらが裸なだけに、このような小動物もかなりの脅威であったのだ。爺様が死んでから、昭和45年くらいにオヤジが奮起して、文化的なバスルームに改築したのだと思う。離れの空き家にもつい最近まで「ほくさんバスオール」があった。先日おかんにどうしたか訊いたら、雨漏りを直したついでに処分したという。惜しい。
当然なこととばかり膨大な時間と労力を費やして毎日セッセと風呂を沸かしていたわけであるが、まあ、それだけ時間がゆったり流れていたということだろう。古いものを懐かしんだり持て囃すのも、まま良いけれど、風呂などについては、蛇口を捻ればお湯が出る現在のほうがよほど便利で清潔で有難いのである。なのにそういう不便のさまを赤裸々に表した書物や文章はとんと少なく、ロマンの世界として煽ったものばかりなのが、気に入らんのである。若い婦女子の皆さんが、「エーッ、薪で沸かす昔の桶のお風呂、入ってみた~い!」なんて言いそうなので書いたのだが、正味の話、あんたら絶対よう入らんと思うよ。(2004-10-18 掲載記事を復刻)
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コンビニのように銭湯があった。
昔のことをうだうだ蒸し返しているよりは、未来への夢や希望を語ったほうが明るく楽しい。しかし、だからこそ偏屈ものは、暗く貧しく不便だった昔のことを蒸し返すのである。つうわけで、これからときどきは、「昭和のこと」を書いてゆくことにする。といっても、あたし自身が昭和33年の生まれであるから、物心がついて記憶が鮮明になるのは大体昭和40年以降。なんのことはない、後半三分の一のことしか知らないわけであるが、まあよかんべ。戦前・戦中・敗戦後のことはどこぞのネット爺様に、経済成長期のことは団塊の兄さまがたに任せて、至って能天気に過ごした昭和後期のことをだらだら書こうか。
え~、まずは風呂のこと。今となっては、すっかり忘れてしまっているが、あたしらがガキの頃は、内風呂もタイヘンだったのである。裕福な御家庭はさておき、貧乏なウチなんざにも、なんと風呂はあった。しかし昭和40年頃、貧しい家庭の悲惨な内風呂を好んだ子供がどれだけいただろうか。それというのも、ちまたには現在のコンビニのように銭湯が営業していたからである。わが実家の周囲半径300m圏内を思いだしてみても、6~7軒は数えることができる。銭湯では、友だちとも会うことができるし、岩風呂の壁を登って遊んだり、脱衣場でフルーツ牛乳などを喫すこともできた。何より、広々としてたっぷりの湯、明るい空間。番台のおかみさんの目を誤魔化して、自動浮沈装置付き「伊号潜水艦」のプラモデルを持ち込んだりしたものだ。もっともこいつは浴槽下部にあった湯吹出口の内部に特攻突入したあげく熱で変形してしまい、あたしは泣いた。あたしが泣くもんで、あわててこれを回収しょうとしたオヤジは手に火傷を負い、あたしは笑った。
さて生家は京都・伏見区の中心部にある。太閤秀吉が朝鮮攻め終盤にトチ狂って築城した、ゴージャス・パレス「伏見城」城下町の町人街区、つまり商業地にあるのだが、城塞都市計画つうものも熟した頃の市街なので、街割りは合理的な碁盤の目状に設計されている。要するに京の町屋と同じく、セコイ正方形の区画を間口の狭い所謂「鰻の寝床」と呼ばれる切妻屋根の家が取り巻き犇めいているのだが、生家もそのうちの貧相な一軒だ。細長い家を尚更細長くするこたあないと思うのだが、「走り庭」と呼ばれる土間が屋根下の長辺を貫いており、その奥、突き当たりにわが家の風呂があった。この長い土間、現在では、ほとんどの家が床をしつらえて、段差のないフロアに改造しているが。
古新聞と木っ端で焚き付け、薪と石炭で湯を沸かす。
この風呂、その土間にコンクリートの基礎をかさ上げして壁で囲んだだけで、洗い場はその基礎を桟にして厚板を4枚差し渡しただけである。湯を使うと、汚水はその簀の子の下にジョロリと落ちて下水口まで土間を流れてゆく。浴槽といえば、まんま「桶」であった。木製の桶に真鍮のタガが3~4本巻かれていて、その三分の一円弧くらいの木製の中仕切りがあり、その下に釜があった。火傷をしないように、釜の前面にも板の仕切りが付いていて、その一部がドア状に片側支持されてい、開いたり閉じたりできる。湯に浸かりながらこれを動かすと湯温の調節ができるようになっていた。風呂を沸かそうと思えば、庭に降りて釜の背面に回り、古新聞と木っ端で焚き付けてから薪や石炭を入れる。あたしも何度か焚いたけれど、火勢を自在にコントロールするにはコツがあり、要領を得た後でも、冬期など風呂を沸かせるまでに一時間以上はかかった。まあ、このときの経験が、今の焚火野宿に活きているといえば、そうだが。石炭を焚くのだから、当然煙突があり、したがって煙突掃除人などもときおり回ってくる。掃除代をケチろうとしたオヤジは時々自分でやったが、 煙突の突きだした屋根上で軒下の蜂の巣を蹴飛ばしたあげく顔中刺されまくり、あたしは笑った。
浴槽に入れる水は流し場からバケツで往復して満たした。後に、突然爺様が「!」となったかと思うと、そそくさと浴室の壁に穴を開けホースを通してカランを作った。これには家族全員が大いなる感動をした。電球はマツダランプの何燭とかいうもので、まあ5Wくらいか。そのうえ電気に水は禁物で、窓越しの光なので、暗いの何の。板がこみの浴室内は、その湿気で、そこらじゅうが腐食されてボロボロ、ヌルヌルである。洗い場の簀の子板が腐ったのを、爺様が踏み割り、素っ裸でナメクジだらけの土間のコンクリに落下したこともある。板の壁はそこここに湿って朽ちた割れ目ができ、そこに棲み付いたトタテグモなどを観察しながら入浴したものだ。掌大のアシダカグモは出るわ、ヤスデ、ゲジゲジ、カマドウマ、ナメクジ、ウジ、戦後すぐには特大のアオダイショウも出たというトンデモナイ風呂であった。こちらが裸なだけに、このような小動物もかなりの脅威であったのだ。爺様が死んでから、昭和45年くらいにオヤジが奮起して、文化的なバスルームに改築したのだと思う。離れの空き家にもつい最近まで「ほくさんバスオール」があった。先日おかんにどうしたか訊いたら、雨漏りを直したついでに処分したという。惜しい。
当然なこととばかり膨大な時間と労力を費やして毎日セッセと風呂を沸かしていたわけであるが、まあ、それだけ時間がゆったり流れていたということだろう。古いものを懐かしんだり持て囃すのも、まま良いけれど、風呂などについては、蛇口を捻ればお湯が出る現在のほうがよほど便利で清潔で有難いのである。なのにそういう不便のさまを赤裸々に表した書物や文章はとんと少なく、ロマンの世界として煽ったものばかりなのが、気に入らんのである。若い婦女子の皆さんが、「エーッ、薪で沸かす昔の桶のお風呂、入ってみた~い!」なんて言いそうなので書いたのだが、正味の話、あんたら絶対よう入らんと思うよ。(2004-10-18 掲載記事を復刻)