◯ 晩春の兼題は「花の雨」「潮干潟」「春落葉」です。
【花の雨】
千体の仏の浴びる花の雨 天天天天地地 喜の字
さつと来て土かほりたつ花の雨 天天地人人 酒倒
野良犬のどこへ行くのか花の雨 天天地人 駒吉
花の雨口解けやさし干菓子かな 天天 音澄
花の雨去りて友の忘れ傘 天地地人人 雪童
天主堂沁みる聖歌や花の雨 天地地 喜の字
回廊に朱塗りの橋や花の雨 天地人 仲春
華やぎの声を散らせし花の雨 天地人 魯斗
時静か介護病棟花の雨 天地 菫女
欣也逝き一ツ木通りに花の雨 天人 愚多楽
花の雨ハートひとひらガラス窓 天人 雪童
【潮干潟】
堤防にならぶ長ぐつ潮干潟 天天天天地 酒倒
潮干潟満ちて寂しく日の暮るる 天天地 酒倒
ノルマンディ戦史を語る潮干潟 天天地 喜の字
子らの聲天地に吸はれ干潟かな 天天人人 逆月
子魚の溜まりに遊ぶ潮干潟 天地人人人 風写
春干潟泡ふく穴に何いるや 天地人人 仲春
半島の影ゆるゆる伸びて潮干潟 天地 音澄
望郷のココロに残る潮干潟 天地 喜の字
潮干潟浜と繋がり遠い富士 天人人 菫女
潮干潟五趾で地層を掴みおり 天 呑暮
潮干潟水平線を船がいく 天 愚多楽
【春落葉】
新顔の交じる社宅や春落葉 天天天天地人人人 呑暮
新しき葉に枝ゆずり春落葉 天天天地 逆月
また一人遠くへ逝きて春落葉 天天地地人人 魯斗
ならぬ恋春の落葉に打ち明けり 天天地人 喜の字
春落葉孫の嫁入り見て往けり 天天 雪童
塵取りの蟲選り分けて春落葉 天地地人 酒倒
靴裏に都会は固し春落葉 天地人 喜の字
気まぐれに老いを愉しむ春落葉 天人 山女
退院のそぞろ歩きや春落葉 天人 魯斗
★音澄さんの選句とつぶやき-------------------------------------------
【花の雨】
・天主堂沁みる聖歌や花の雨 天
・千体の仏の浴びる花の雨 地
・花の雨腰まで届く巫女の髪 人
いつも選句は、二度三度繰り返しています。今回この三句を選んでもう確認しているうちに笑いました。「キリスト教、仏教、神道」でありました。
二度三度繰り返すのは、一度読んだだけでは何でもなさそうな句がとても奥深いことがあって、その奥深さに気づかないまま「普通だナァ」と見逃してしまうことがあるからです。できるだけ、それがないように吟味する、という気持ちです。
もう一つニヤニヤしたのは、
・芥子菜の木の芽煮で呑む花の雨
この句です。「やりゃぁがったナ」(落語調で)でした。「芥子菜、木の芽、花の雨」季語を三つも入れ、それでもそうそう重苦しい気がしない詠みかたをした句。滅入る句会に気難しい宗匠がいれば「こういう句は詠まないように」というのかどうか、わからないけれど、酒好きだと詠んでしまいそうな気がしました。わかっていて、季語の山盛りにしたのだと思って、ニヤニヤです。
「出題者」としては、花の雨は「春雨でもなく、春の雨でもない(春雨と、春の雨は季語としては別です)」雨。桜に降る雨、桜を散らさないでくれと願う雨、春の纏綿たるというか、情緒的雰囲気に揺れる心情含みの雨を詠んでくださいという心づもりでした。
「春雨じゃ濡れていこう」的な、濡れることが気にならない春の温かい雨、ではなかったのですが、そういうふうに捉えてもらえなかったか(あ、失敗)、と思いました。だから、私は単に春の雨の句は選ばないことになりました。
【潮干潟】
・ノルマンディ戦史を語る潮干潟 天
・約束のピンクの貝殻潮干潟 地
・春干潟泡ふく穴に何いるや 人
ノルマンディにやられました。あ、この手があった、あの海岸を詠む手があったか、でした。潮干潟を「どこにするか」考えることはしたのですが、ロンゲスト・デイの海岸は思い浮かべることができなかった。
・橋無くば島へ通ふは潮干潟
この句は、モンサンミシェルでしょうか、この句にも心が残りました。
「潮干潟」は、「潮干狩り」の風景に確かに近いのですが、人が大勢来てにぎわっている遠浅の海の風景ではなく、その遠浅の海そのもの、春の大潮のときにずっと向こうまで干潟になる海と「詠み手の位置取りや視点」という気で出題しました。
潮干狩りの句がかなり多かったので、出題がまずかったかと思ったのですが、後の祭りでした。「潮干潟」と「潮干狩り」は小さな違いですが、季語の違いによって俳句を作るときの風景の違い、あるいは俳人の見ているモノに違いがあると思って出題しました。
「人」の干潟の穴の中から、ブクブクと泡が出ている様子が、海臭く、泥臭く、潮干狩りと重なる風景の句だけれど、泥に開いた穴を見つけてじっと覗き込んでいる俳句の詠み手の後姿がいいと感じました。
【春落葉】
・塵取りの蟲選り分けて春落葉 天
・肉球がひっそり踏むや春落葉 地
・春落葉ルーキー達の新天地 人
春落葉は「喝采の紙吹雪かと春落葉」のようには落ちない。
常盤木類の葉が、春にひっそりと入れ替わる様子ですから。
春落葉は、「春落葉新しき芽は備ひたり」、「新しき葉に枝ゆずり春落葉」という句が説明している通りの常盤木の命の循環です。この二句は、金子兜太大先生が言う、説明句でした。ここで詠んでいることが「春落葉」という季語ひと言ににもう含まれています。
天の句は、カリカリした葉が多い春落葉を塵取りに集めると、蠢きだした虫が一緒に入ってしまうので、虫を選んで地面に返している。ほほぉ虫好きだな。
その次の肉球、もうこれは犬を連れての日々の散歩でしょう。そうか、常盤木のある雑木林など通ると、まだ冷たい土の上の春落葉を肉球が次々に踏む、と。飼い主はよく見ているナァと思いました。
「人」の句は、葉が入れ替わる世代交代と、新人たちがまた新しい場所にやってきてハツラツと動き始めた様子が「うまい摑み方」だなと思いました。新天地という一語の明るさも素敵でした。社宅の句もあって迷ったけれど、ルーキーという言葉の伸びやかさがいいと感じての選句。
宗匠でもないのに、ナマイキなつぶやき、悪しからず。
ではでは 次回はもう初夏の句会です。
小間使い